文學界7月号新人小説月評

月評7月号

シリン・ネザマフィ「拍動」(文學界

 まず日本語を母語としない人間が、これだけの文章を書くことに驚く。言われなければ外国人だとはまったくわからないにちがいない。文学的な印象の文体だ。今の若手作家のなかには、もっと砕けた口語調の文章しか書けないものがいくらでもいるだろう。
 とはいえ内容は物足りない。主人公の「私」は恩師である山本先生に久しぶりに呼び出され、アラビア語の通訳を頼まれる。北アフリカ出身の非常勤講師アラン先生が、交通事故で突然意識不明の重体になってしまったのだ。故郷から駆け付けた言葉の通じない家族たちに状況を伝え、少しでも慰めることが彼女の役割だ。しかし、好転の兆しのないアラン先生の病状を前にして苛立ちをつのらせた家族は、自分たちが外国人だからろくに治療もされない差別待遇にあっているのだと疑心暗鬼をつのらせる。一方、山本先生をはじめとする日本人サイドは、軋轢をおそれて本当の病状を伝えていなかった。
 異文化に接触した人間が違和感を苛立ちや怒りに転化してしまうことはよくある。そして怒りをぶつけられた側は、その戸惑いを彼らは異人種だからという認識に変えて防御し、やり過ごそうとする。その結果お互いの気持ちはまったく理解されない。ここに描かれているのはそのような状況だ。けれども社会科学の論文なら、こうした状況をビビッドに描き出すだけで何らかの啓蒙的な価値を持つのかもしれないが、小説としてはいかにもありそうなありふれた事態にしかみえない。小説としてのまとまりを考えるなら、焦点は、在日経験の長さゆえ、アラブ側の気持ちも日本人の対応も理解できてしまう「私」のアイデンティティのゆらぎ、ということになるのかもしれないが、その部分が通りいっぺんにしか描かれていないので印象が薄い。
 感情表現がストレートで、怒りだすと止まらないアラブ人、衝突をさけるため曖昧にものを言おうとする日本人というのも紋切り型だ。いや、紋切り型でも真実をついているのかもしれない(少なくとも外国人である作者の目にはそう映ったわけだ)。しかし、彼らの行動は読者の予想内であるために驚きがない。
 結局のところ、文章は悪くないし(ところどころねちっこい描写があってそれはよかった)、描かれているシチュエーションも自然な(ありそうな)ものなのだが、そこから踏み出せずに終わってしまった。
 しかしこの書き手が優等生であること、努力家であることは確か――でなければ、短期間で内容と文体両面の「純文学っぽさ」をマスターできないだろう――なので、次の飛躍を期待したい。

上村渉「群青の杯を掲げて」(すばる)

 十代の頃、一緒に新宿で飲んでいた友人が、歩いて家まで帰ろうと言いだした。目的地は千葉の船橋。東京を横断することになる。もちろん酒の勢いもあったが、それより今しかできない馬鹿なことをやるのだといった興奮があった。道をまちがえて大回りしたせいもあって、友人の家にたどりついたのは朝の十時ごろではなかったかと思う。疲れ切っていた。しかし達成感もあった。何より、気の合う仲間としゃべり通しだった数時間が、なによりも貴重なものに思われた。つまり、我々はまだ童貞だったということだ。
 この作品を読んでその夜のことを思い出した。苦味の利いた青春小説だ。
 俊と大輔は、フリースクールで出会った友人だ。二人とも不登校の過去を抱え、今も社会に対する不適応感を抱えている。といっても、俊の方はIT関係の小さな会社に、大輔はクリーニングチェーンに勤めてそれなりの信頼を得ている。つまりきちんと社会人をやっているわけだが、本人たちはそう感じていない。客観的にそつなくこなせていたのだとしても、ちょっとしたことをきっかけにまた道を外れてしまうのではないかという薄氷感が決して消えないからだ。このあたりの機微の描き方がいい。ひきこもり経験者にとって最大の恐怖は、再び精神のバランスを失い、過去に経験した自意識の地獄へとまた落ち込んでしまうことだろう。その意味で彼らは、アルコール中毒からの帰還者に似ているのかもしれない。
話はいくぶんずれるけれども、現在たまたま村上龍の『共生虫』を読んでいる。1999年に連載された作品で、やはりひきこもりの青年が主人公、それも完全なモンスターとして描かれている。龍が絶頂期の作品とあって、さすがに圧倒的なおもしろさだが、ひきこもりが過剰で病的な存在として扱われているという点では、現在とずれてしまっていると思う。つまり、当時ひきこもりはまだ新奇で不気味な現象として感じられていたかもしれないが、その後十年で、確実に私たちの社会の平凡な一部――であるがゆえにますます深刻な――になったからだ。 
現在もひきこもりが主人公の作品は珍しくないけれども、その多くは結局物語を劇的にする素材として利用しているだけだ。その点、この「群青の杯を掲げて」では、物語のために(元)ひきこもりという設定があるのではなく、(元)ひきこもりという存在のために物語が作られている。
ちょっとしたことからバランスを崩した俊は、東京からフリースクールのある御殿場まで歩こうと言いだす。大輔も俊に引きずられるようにつきあう。小説の大部分は、このただひたすら道を歩き続ける描写からなっている。いわばロード・ウォーキング・ノベル。難をいえば、もう少し読者サービスがあってもよかったと思う。たとえば、過去のエピソードを適宜織り込むことで、彼らの心情に膨らみをもたせ、また単調になりがちな叙述にメリハリをつけることができたのではないか。


温又柔「来福の家」(すばる)

 名前が温又柔だけにというのは悪い洒落だが、ほんわかした温かなエピソードばかりつづく。物語がなくて自分語りだけがある。だから、小説というよりまとまりのない長大なエッセーを読まされているような気持ちになる。語り手は日本で生まれ育ったが、日本国籍はない華人(台湾人)。大学卒業後、不得手だった中国語を学ぶために専門学校へ入り直すという決意を軸に、日本語、中国語、台湾語の三つの言語と自分の関わりをいろいろと考える、というのが主な内容だが、ストーリーがないので結局散漫な印象しか与えない。何か切迫感がないのである。個々のエピソードも、そういう境遇であれば経験しそうなごくありふれたものばかりだ。そして出てくる人物がみな善人ときている。優しい家族と友達に恵まれて、個人的には慶賀の至りだが、読者にしてみれば「それで?」というほかない。
 それにしても、国籍とアイデンティティの問題を扱ってこれほど陰りのない話も珍しいのではないだろうか。これはやはり出自が台湾だからなのか。大陸系であればこうはいかなかったような気もする。作者がふたつの国家のはざまに生きて、きわめて朗らかでナチュラルであることは素晴らしいことには違いないが、小説としては退屈だった。

松波太郎「関誠」(すばる)

 これはおかしかった。前作の「東の果て」(文學界)は、野心的ではあるものの、仕掛けが収束しないでとっちらかったまま終わってしまった感じだったが、こちらはきっちりまとまった好短編。最近転職したばかりの戸川クンは、職場の先輩である関誠(せきまこと)に実家にまねかれる。物語の半ばは、このときの関誠の描写に費やされる。とにかく変人である関誠の一挙一投足のズレぶりが絶妙におかしい。さらに一緒に暮らしている関の母親もおかしい。小心な凡人である戸川クンは、先輩と事をかまえたくない一心で同調しているのだが、実際のところ彼の奇妙な行動を子細に観察している。しかし気安く馬鹿にしたり意地悪になったりしないのが戸川クンのいいところで、彼のニュートラルな眼差しを通して、関誠の妙に論理的な印象を与える奇行の数々が詳細に描写される。
しかしそれだけだったら単に奇天烈な人を描いただけに終わっていただろうが、読んでいる途中で不意に気づくのだ。この作品は荒唐無稽なギャグ小説ではなく、むしろ何か障害――アスペルガーを連想させる――を持つ青年の写実的な肖像ではないのかと。その瞬間、関誠の印象ががらりとかわる。つまり彼の奇行から透けている真面目さ、誠実さ、純朴さ、優しさといったものが見えてくる。

 
広小路尚祈「塗っていこうぜ」(すばる)

前作の「うちに帰ろう」では、精神的なバランスを崩した主婦と、そのママ友である男性主人公の気軽なやり取りが、どんどん二人を深刻な状況に追い詰めていくおかしさがおもしろかったのだが、それと比べると今回はちょっとわかりやす過ぎるかな、という感じ。前にもましてすらすら読めるけれども、その分、分類不能のおもしろさはなくなってしまった。
 主な登場人物は「おれ」、ジュンペイ、ケンタの三人。十代の頃は一緒につるんで「やんちゃ」していて、その地域では知られた不良だったが、今はみなまじめにガテン系の職についている。「おれ」は塗装工。彼は世の中は絶望で真っ黒でもなく、かといって光に満ちているわけでもなく、暗がりのなかにかすかな希望がさしている「茶色」なのだという信念を持っている。最近地元のシャッター商店街が落書きだらけになっていることを憂えた主人公たちは、「おれ」を中心に深夜にシャッターを茶色く塗ってまわることを決心する。プロの技で商店街を見かけだけでも再生させようというわけだが、もちろん違法行為だ。ところが、ペンキを塗っているあいだに溶剤の臭いにケンタがシンナー中毒をぶりかえして……。
 狙いはわかる。ストレートで肉体派で、うじうじ悩みたくても先に体が動いてしまう、そんな三人がタッグを組んで寂れた田舎町を塗って塗って塗りまくる、という設定はいかにも明るく勢いのある作品になりそうだ。彼らが元不良とも思えぬほどまじめでやけに好青年なのも、キャラクターの深みより軽快さを優先したのだとして、まあ良しとしよう。けれども、キャラクターをシンプルにしたぶん、彼らには思いっきり動いてもらわなければならないが、そこが中途半端なのだ。というのももともとプロットに起伏がなさすぎるのである。物語の定石上、彼らが結成したチーム「ちゃーす」は、何度かの危機を乗り越えて結束していかなければならないが、活動を始めたばかりで空中分解してしまう。それに「おれ」と恋人フジコとの関係も書きこみ不足。今のままでは単なる怒りっぽいおばさんだ。母親の再婚のエピソードだって宙に浮いている。そんなこんなで、連載途中で打ち切りを命じられて、とっちらかったままになってしまったマンガのような味気のなさが漂う。枚数と内容の兼ね合いを見誤ったのだろうか。素材を生かして書きなおせば良くなるかも。

木村紅美「黒うさぎたちのソウル」(すばる)

 これまで木村紅美というと、二十代の女性の淡い思いや孤独な心情を繊細に、しかしどこか風通しの良いままに描く作家という印象があったのだけど、今回はやや新機軸。いや、かなり大胆な試みだったと思う。大胆というのは、最近流行りでもあるスクールカーストを前提にした少女小説の枠組みに、現在まさに進行中の極めつけの大問題、戦後史の宿痾とでもいうべき主題をぶちこんでみせるという大技だったからだ。すなわち、沖縄基地問題。それも単に、リベラル派のお題目を社説風になぞるのではなく、沖縄内部の差異にも目を配り――沖縄本島からも過酷な差別を受けた地域である奄美がとりあげられる――苦しみから湧き出す歌=ソウルミュージックというテーマも繰り出し、それをほとんど知られていない奄美の特異な民謡と結びつけて、少女暴行事件を表象するのだから、大技につぐ大技である。大したものだ。単に社会的なテーマを取り上げているからではなく、沖縄問題とゴスロリ少女を結び付けるという発想がまず新しい。
それでは、見事歴史とがっつり四つに組んだ、本邦初の(?)社会派少女小説にして、ロックンロール民謡小説の誕生かというと、残念ながらそうもいかない。技が決まり切らず肉離れを起こしてしまったというか、どこか水と油のようにテーマが混ざり切らずちぐはぐなのである。
背景は1999年、主人公麻利はLUNA SEAに夢中の高校三年生。東京育ちだが、両親は沖縄県人である。幼いころからの友人奈保子は奄美大島の血筋で、やはりLUNA SEAのファン。昔は親友のようだった二人だが、最近は学校で所属するグループが違うせいでどうもうまくいかない。そこには、社交的でルックスもいい麻理とどこか陰のある奈保子という違いばかりでなく、沖縄と奄美の微妙な対立感情も影を落としているようである。
二人はLUNA SEAの東京ビックサイトのライブに行ったことから、仲たがいし、お互いにひどい言葉を投げあう。
どうしてもテーマの社会派的な骨太さと、実際に描かれる世界――平凡な女子高生の心情――の小ささがうまくかみ合っていない感じ。でもおもしろい試みだと思います。

鶴川健吉「乾燥腕」(文學界
 文學界新人賞受賞作。後宮は冴えない新人サラリーマン。安アパートでの一人暮らしで、息抜きと言えば自慰くらい。このいかにもツキのない男の、何一ついいことのない日常をねちっこく、戯画的に描いていく。まず隣人も変人ばかりであるアパートが凄まじい(思わず武田麟太郎を思い出した)。また、触覚的な不快感をしつこくしつこく描写する。個人的にはネズミの尻尾が一番来た。今住んでいる場所ではネズミをしょっちゅう見かけるので、それだけ生々しいのだ。
 ただ、生理的な不快感のヴィヴィッドな描写という点では、それなりのものだと思うけど、それで終わってしまっている。あと何が欠けているのか。キャラクターの魅力だろうか。登場人物の絡み合いだろうか。物語が転がっていく勢いだろうか。一次的なモチーフの反復という点では執拗過ぎるくらい執拗なのだけど、その先の部分がお留守なのだ。

穂田川洋山「自由高さH」(文學界

 こちらも新人賞受賞作だが、とにかく文章が見事だ。緻密に組み立てられ、丹念に磨き上げられた一分の隙もない手練の文体で、意図されたわずかな古めかしさが作中の柿渋同様、古色のついた艶を放つという按配。内容は、さして若くも見えない男が、取り壊し寸前の廃ネジ工場を借りて、木材を切り、塗装を施し、ときおり知人と会話を交わすといった程度の内容ともいえないようなもの。ほとんど文章の魅力を最大化するために、どうでもいいような筋が選ばれたのではないかと思えてくる。
 しかし、実のところ、読みながらどこか息苦しかった。大した文章だと思う一方、その文章の良さから先に気持ちの持って行きどころがないのである。
 見事で技巧的な美文と希薄なストーリーの組み合わせと言えば、すぐに堀江敏幸が頭に浮かぶ。けれど、堀江の場合苦しくなることはない。それは堀江が要所要所で、文章だけに向かってしまいがちな読者の注意を、印象的なイメージや具体的な情感といったものにさりげなく誘導するのが巧みだからだと思う。それらは石造りの壁にうがたれた窓のように、あるいは流麗なメロディ内の休止符のように機能する。小説の文章がもっとも美しく感じられるのは、その文章のことを一瞬忘れ、情景や感情がまざまざと迫ってくる瞬間だ。この作品では、その呼吸がうまくいっていない。というか、そんな印象的な情景なんてものにあっさり着地してたまるか、と意地になっているところさえあるのかもしれない。人物に関しても、あくまで表層的な描写にあえてとどまっている感がある。しかしそんなに肩肘をはらなくてもいいのではないか。


戌井昭人「川っぺりらっぱ」(en-taxi
 この作家は、世間の隙間に落っこってしまったような人間を描くのがうまい。社会に反抗している、世を拗ねている、というのとも少し違うし、落後者、挫折者というのとも微妙に異なっている。なぜだかその男の周り半径数メートルだけ、世の規範が働かなくなってしまっている。圧力が薄れてしまっている。世の良識あるオトナたちの意識の大部分を占めているような事柄、つまり間近に迫った納期だとか、職場の人間関係のわずらわしさとか、経済的な不安であるとか、そういうものが抜け落ちて真空状態に立っている。本人も、何で俺はここにいるんだろ、と首をかしげている。そんな風情である。
 前作の「ぐらぐら一二」(群像5月号)は、事故で指が二本落ちてしまったのを淡々と受け入れる若い男の話だった。普通だったらショックで落ち込んだり激高したりしそうなものだが、彼は平然としている。それでいて、少しも病的なところを感じさせないのが独特だった。
 今回は、売れないジャズミュージシャンが主人公だ。彼は実家が所有している川べりのプレハブの二階に寝起きしている。もともと砂利置場の事務所なので、便所は建設現場にあるような簡易便所だし、シャワーは水道にホースをつないだだけのものだ。ミュージシャンと言っても食えているわけではなく、他に仕事もしていないので極貧生活だが、本人は何となく納得してしまっている。満足している、ということではない。いつのまにかその生活に体がなじんでしまっているのである。
 一応サックス教室を開いているのだが、生徒は三人しかいない。こんなうらぶれた教室に通ってくるのは、そもそも自分も生来のツキのなさが肌身にしみ込んでいるか、さもなければ腹にいちもつある奴しかいない。この中では、田んぼと呼ばれている小学生がおもしろい。なぜこの教室を選んだのかと聞かれて、「駄目な奴の雰囲気も吸収しなくちゃジャズはできねえからな」とうそぶく生意気なガキだが、ピアノを弾かせればちょっとした神童であるらしく、また案外いい奴にも思える。
 そのほかにも、土建屋の父、ヤンキーの姉、主人公をジャズに導いた破滅型の先輩とキャラがいちいちしっかり立ちながら、エッジが効きすぎて奇人になっていないところがいい。
 ストーリーと呼べるほどのものはないけれど、個々のエピソードはどれもクスリと笑ってしまうようなものばかりだ。と同時に、かすかな哀感と憂鬱さも漂っている。それは主人公が、音楽に打ち込めなくなり、ちんたら停滞していると感じるところから来るのだが、それでいて妙にふてぶてしい、人生を棒に振って何が悪いという開き直りも感じられるのだ。
 決して斬新でもなんでもない話なのに、なぜかするすると引き込まれ、もっと続きが読みたくなる。これだけ多彩なキャラをたくさん出しておいて、いっさい収拾をつけないまま終わらせてしまうのはもったいない。ぜひ、連作にしてほしい。

赤染晶子乙女の密告」(新潮)
 以前この作家の作品を一、二読んだ覚えがあるのだが、どうもよくわからない、という印象しか残らなかった。がちがちの前衛小説に思えたり、逆に、かなり病的な感覚をそのままじかに吐露したものなのか、と思ったりした。だが、この作品を読む限りどちらでもなさそうだ。かなり知的で構築的、かつユーモラスな作風である。
 最初の設定はコメディータッチ、それも学園マンガ風。京都にある女子学生ばかりの外語大。そのドイツ語科では、つねに人形を小脇にかかえている変人外国人教師の指揮のもと、学生たち(「乙女たち」)は「黒ばら組」と「すみれ組」に分かれて競い合っている。何を競い合うかというと、外国語のスピーチコンテンスト。今は「アンネの日記」を題材にしたコンテストが控えている。黒ばら組のリーダーで、コンテストの女王である麗子様、その麗子様にあこがれる主人公のみか子、その友人で帰国子女の貴代といったところが主な面々。ネーミングだけですでに七十年代のスポ根少女マンガ風味である。スポーツがスピーチに、美形のコーチが怪しい変人教授に差し替えられているだけだ。
 ところが、途中からスピーチ素材のアンネの存在感が増してくる。すなわちユダヤ人というアイデンティティを否定され、オランダ人という他者へ同化する夢にすがらざるを得なかったアンネの苦悩に、登場人物たちが共振していくのだ。スピーチと人形を巡るドタバタが、アンネの逃亡生活の再演となる。パロディと見せかけて、むしろポリティカルで実存的なテーマが作品の中核にあるのである。
ただ、おもしろおかしく楽しく読ませるけれども、アンネ・フランクに託して語られる主題が充分に展開されているようには思えなかった。アンナ・M・フランクといった名前に象徴されるような個人の単独性、固有性の尊厳といった主題はそのまま受け取ればあまりにストレートに過ぎ、より複雑で微妙なニュアンスを読み取るには、メタフィクションめいた仕掛けが邪魔になる。最後に伝わってくるのは、作者のアンネ・フランクによせる熱い共感であった。

浅川継太「朝が止まる」(群像)
 群像新人賞受賞作。二つのパートが交互に続く。第一のパートは、電車の中で出会う若い女の後姿をひたすら窃視し、あとを追いかけていく男の一人称。ねちっこくやばい感じであるが、どこか詩的だったりもする。第二のパートは、二重目覚まし時計なるいかがわしい商品を売る若い女の語り。この二重目覚まし時計というのが作品の肝で、見かけはただの目覚まし時計、ただし前ぶれなく二回目のベルが鳴ることがあるのだという。そのベルが鳴ったとき、持ち主はこの「現実」という夢から覚めるのだという。つまりマトリックスでいえば、モーフィアスが差し出す錠剤のようなものだ。かなりメタフィジカルな話である。
 とはいえ、この二重目覚まし時計が単なる法螺なのかははっきりしない。ストーリーは、二重目覚まし時計の真偽は置き去りにして、売り手である「わたし」と彼女が所属する怪しい組織の駆け引きのようなものにシフトしていくからだ。これだけで、ずいぶん凝った造りであることがわかると思う。作者はこのややこしい話を破綻することなく、「安定した書きぶりで造形し遂げている」(選評の松浦寿輝の評)。
 ただ僕はその実力は認めつつも、どうも乗ることができなかった。これだけ周到に謎を張り巡らせ、リアルとその外部の反転を仕掛けておきながら、最後までその謎には切り込まずに、周囲をぐるぐる周っているだけなのだ。最初から爆弾を破裂させる気のない爆弾犯みたいなものである。ごまかされたような気がする、というと大げさだが、どうも肩すかしをくらわされたような感じだ。(ただ、自分は女子高生の見ている夢なんじゃないかと思い悩んでいる脂性の中年男、という小さなエピソードだけはやたらとおかしかった。)

野水陽介「後悔さきにたたず」(群像)
群像新人賞受賞作。選評にコンビニを素材にするのはありふれているという意見があったが、そうは思わない。確かにコンビニ自体は若手作家の作品にしょっちゅう登場する。けれども、単なる場所としてではなく、意識的に労働の現場としてコンビニをとらえたものは多くないだろう。読みながらあらためて思ったのは、日本で発展したコンビニという業態が、いかに日本の国民性、歴史的特殊性と結びついているかということだ。具体的には、これほど膨大で多種多様な商品を、システマティックに精緻に管理している小規模小売店など世界中探してもないのではないか。少なくとも僕が今生活している中国では到底無理そうだ。中国にもコンビニはあるが、雑貨屋とそれほど隔たっているようには思えない。よほどの高給でも約束しない限り、平均的な中国人労働者は、コンビニを回していくのに必要な煩瑣で複雑な作業の数々を受け入れられないだろうと思う。なぜそこまでしなければならないのか、と思うはずだ。なぜ床に泥はね一つついていてはいけないのか、なぜ商品が一ミリとずれずに整然と並んでいなければならないか。
 もちろん日本の優秀な労働者マンセーというつもりはない。むしろこの種の過剰なサービス基準が不幸を生んでいる面は大きい。この作品の主人公サクライは、コンビニ店長なら喉から手が出るほど欲しい、コンビニ店員のプロ、超人的なスーパーコンビニマンだが、ほとんどフルタイムで働いて手にするアルバイト代は21万程度に過ぎない。しかし彼がこの仕事に注ぎ込んでいる情熱と労働の量は、どんなエリートサラリーマンをも上回るものだ。ほとんどこれは無償の情熱なのだ。そしてもちろんサクライ以外のアルバイトに、もしもサクライのように働くことを求めるとしたら、これは地獄以外の何ものでもないだろう。
 さて、ここまで書いてきてなんだが、以上の部分はこの作品とはほとんど関係ない。というのは、この作品は過酷な労働の苦しみを描いたワーキングプア小説でもなんでもないからだ。もともとそうした社会的視点とは無縁の作品であって、以上は読みながら考えた個人的な感想に過ぎない。ではいったいどういう作品なのか。
 僕はこの作品を、神にも等しいひとつの主体が小さな宇宙を統べていく神話的、あるいは古典的作品だと感じた。実際に書かれているのは、傍からは変哲もなく見えるだろう理系大学生サクライが、コンビニでルーティンワークをこなしていく様だが、実のところこれは、閉ざされた「商品の宇宙」(マルクス)を内なる律に則って統治していく主体についてのある種の神話であると思う。でなければ、これほど単調な話がかくも魅力的なのか説明できない。コンビニというミクロコスモスを、天体にも比すべき厳密な原理に従って運行していく店員サクライは、近代小説よりも古典劇の主人公に近く、2010年代の日本におけるささやかな王である。だから彼の王国の秩序を脅かす異物(コンビニ前にたむろする不良など)が排除された後、近代小説ではあまり縁のない種類の慰安(すべては当を得ており、正しい摂理が働いているという安心感)が訪れるのだ。


牧田真有子「預言残像」(群像)
 この作家については、一年前に読んだ「夏草無言電話」という作品を読んだときにいたく感銘を受けて、短い文章を書いたことがある。ある媒体に載る予定だったのだが、事情で流れてしまったので、こちらで蔵出ししておく。
 その前作は、結晶のように閉ざされた透明度の高い世界を形作っていた。しかし今回は、より多くの題材をとりこみ、登場人物を増やして世界を広げようと試みたあとが伺われる。しかし、それはまだ成功しているとはいえないようだ。もともとこの作家は、精緻なリアリズムで思春期の心情をたどるうち、いつのまにか幻想の気配が漂いはじめるという作風の持ち主だ。あくまで基調となっているのはリアリズムである。ところが、今回は予知夢や謎の死亡事故や原因不明の殺人衝動といった大げさな道具立てがリアリズムの部分と噛み合っていないために、どこかつくりものめいて人工的な印象を与えてしまう。具体的に言うと、日常のささやかな心理や心情の描写に関しては隙がないのに、彼女の根本動因である殺人衝動といったものは理由を説明されない。だから、不自然に感じられるのだ。ホラーなりミステリーなりであればそうした不自然さも許容範囲だが、このタイプのリアリズムでは気になってしまう。
 それと関連するけれども、主人公たちの心理の理路がどうにも呑み込みにくい。高校生の朱泉は、兄から自分の死を予言された瞬間、歓喜に包まれる。それはどうやら、死という終着点をしっかりと自分の手につかむことで、自分というものの輪郭がはっきりとし、瞬間瞬間を取り返しのつかない現在として生きられる、といった感覚であるらしい。理屈としてはわからないではないけれど、観念的であり、納得しづらい。高校生としてあまりにエクセントリックである。いや、高校生だからこそエクセントリックなのかもしれないが、では末期がんを宣告されたとき同じように考えられる十代がどれだけいるかと想像してみると、やはり不自然だと思う。同じことは、もう一人の主人公の心理にも言える。
 ただ、このように成功作ではないにしても、あらためてとてもいいものを持っている作家だと感じた。描写のひとつひとつが清冽であり、印象的なのだ。そのうちきっと素晴らしいものを書くだろうと信じている。

柴崎友香ハルツームにわたしはいない」(新潮)
 ようやくおぼろげにこの作家がこだわっている事柄がわかってきた。冒頭、語り手の「わたし」は、アイフォンを使って東京の天気を確かめ、ついでにロンドン、フェズ、サンパウロといった地域も見て、最後にハルツームが現在41度であることを確かめる。なぜ行ったことも行く予定もないハルツームの天気を調べるのか。この瞬間、彼女は、自分が今新宿へ向かう電車の中にいてハルツームにはいないが故に、自分が今新宿へ向かう電車の中にいてハルツームにはいないことに深く驚愕しているのだ! 最高だ。ここにはトートロジーだけが引き起こすのできる形而上学的な目眩がある。ただ、今回の作品では、そうした哲学的な疑問――言葉にするとしたら、私という存在の偶有性といったものになるだろう――には深入りせず、複数の場所、情景、話題があたかもアイフォン上のアイコンのように、清潔な快適さで流れていく。プロット的にはほとんどつながりのない場面が、しかし一瞬の遅滞もなく、なめらかに差し替えられていく様は、ほとんど円熟の境地とさえ感じられる。これまで培ってきた技法が完全に自家薬籠中のものとされている格好だが、後半に至って、今までこの作家にはなかった、いい意味でぶっきらぼうで不穏な気配がにわかに立ち込めるのも興味深かった。