牧田真有子「夏草無言電話」

(前略)

今回取り上げたいのは、牧田真有子という作家の「夏草無言電話」という作品。二十八歳というからまだ若い人ですね。十ページ程度の短い作品なんだけど、とてもよかった。高校生の少女が、突然「当分しゃべることをやめる」と宣言するところから始まります。
ところで、いきなりここから大風呂敷を広げたいんだけど、前回の書簡で、近代小説のスタイルというのは、哲学の近代的主観性の構造と結びついているんじゃないかという話をしましたよね。これは、やはりデカルトのコギトを考えるとわかりやすい。ラカンが「セミネール4」で強調していることですが、コギトというのは空虚な、自分が存在しているということ以外は何も知らない無知の主体だよね。それに対して、知はすべて神の側に投げ返される。つまり世界の真実性と整合性はすべて神が保証するということですが、この場合の神というのは自然といいかえてもいい。この瞬間から、無知の主体が、目に見えている自然を一歩一歩観察し、記述することで世界の全体を獲得しなおす、という運動が始まります。すなわち、科学の誕生です。ラカンデカルト幾何学解析学に変化させたことなどを挙げています。もちろん自然は延長を持った物体に変化しており、その内的な論理構造を明かすことが科学の役目になります。
 バルザックフローベールが体現するリアリズムとは、まさにこの科学的態度の文学化ではないでしょうか。話者、ないし視点人物の目の前には、世界が多様な物体として現れている。それを明晰・客観的に記述すること。必然的に描写は高度化していく。ここで問題になるのは、世界がここに現前しているという感覚と、それを可能にする〈今〉という瞬間です。十九世紀のリアリズムの成立に、当時の科学礼賛の風潮を見てとるのは自然なことでしょう?
 しかし、近代文学にはもうひとつの系譜がある。それは、ドイツ・ロマン派に起源を持ち、哲学的にはシェリングらポスト・カントの思考とつながっている。それは瞬間と現前とは対極的に、むしろ生成を問題とするものです。具体的には、自分が発している言葉にたえずメタレベルからの言及を繰り返すことによって、記述を、つまり時間を発生させる。ホフマンなどを読めばわかりますが、このタイプの作品は、リアリズム派の端正なフォルムを獲得することが難しく、プロットが迷宮化していく上に、どこまでいっても未完成という感を与える。均質な時間を前提にして、ある瞬間からある瞬間までを鮮やかに切り取ってみせるのが苦手なのです。そもそも現実というものが明確ではなく、その現実(記述)が成り立つ条件を主題化しているのですから。現代生物学の用語を使えば、「内部観測」ということになるでしょうか。
 さて、ここで牧田有真子に戻ります。この作品は端正なリアリズムの筆致で描かれていると言っていいと思いますが、ここでも問題になっているのは〈瞬間〉なのですね。主人公が言葉を失うのは、自分が桜並木に見とれていた瞬間にある殺人事件が起きていたことを知ったからです。その事件は彼女とは何の関係もないのだけど、美しく桜が咲き誇るのと同じ時間に、凄惨な出来事が共存しているということの不思議さに呆然としてしまうのです。この世界を現在という瞬間にスライスしてみれば、驚くほど多様な出来事が起きている。当たり前のことだけど、考えてみれば不思議といえば不思議です。念のため述べておけば、彼女はその事件をニュースで聞くだけ。思春期特有のはりつめた時間感覚が、少女を瞬間に封じ込めてしまうわけですね。
 言葉を失って彼女は見る人になります。透明な夏の日々のなかで、彼女の視線に現前する世界のありようが主な内容を形作っているわけだけど、そこにエキセントリックな級友が絡んでくる。その少女はどういうわけか、主人公にいわれのない悪意をぶつけてくるわけですね。
 種明かしはしないでおくけど、最後にまた時間が出てきますよね。級友は実は、彼女を時間から解放しようとしていたわけです。瞬間というのは、すでに複数の時の重ね合わせで出来ているのだという回答を用意して。
 周知のように現在、リアリズムは退潮傾向にあるわけだけど、小品ながら、リアリズムの限界に内側からかすかに触れている作品だ、なんていうのは冗談半分にしても、気持のいい小説だと思いました。