文學界六月号新人小説月評

月評六月号

羽田圭介「黒くなりゆく」(すばる)
 先々月のすばるに掲載された「御不浄バトル」では、この作家はブラック会社で働く若いサラリーマンの八方ふさがりの状況を淡々としたタッチで描いていた。それは出口のなさに由来する怒りや絶望さえも、生々しい鮮度を保てず、灰色の日常に溶け込んでしまうような麻痺の感覚として表現されていた。一方この作品では、主人公サカタは、自己啓発系のビジネス書を読みあさり、ひたすら自分の気持ちをアゲていくことで、殺伐とした競争を乗り切ろうとするタイプの人間である。サカタはストリート系ファッション誌の編集部中堅社員。少なくとも主観的には、最先端の情報機器を華麗に使いこなす有能なビジネスパースンであり、また東京のストリート文化を発信し、読者モデルたちからも一目置かれるちょっとしたカリスマである。
 もっとも本人がそう思いこみ、闇雲に自分を煽りたてているだけで、メタレベルから(読者目線で)見れば、彼はかなり滑稽な勘違い野郎に過ぎない。「御不浄バトル」の「僕」が、たえがたい日常をやりすごすために消費エネルギーをどこまでも下げて行き、半ば仮死状態になってしまうダウナー系だとすれば、サカタは社会が押し付ける価値観を過剰に刷り込んで、「サクセスしてるオレ」像をハイテンションで演じつづけるアッパー系だ。
 だがキャラクターはまあいいとしても、残念ながら、作品として成功しているとは言えない。まず文章だ。劣化した中原昌也風の力こぶの入った文体は、キャラクターを馬鹿っぽくみせてもアイロニカルな笑いを引き出すところまではいかない。さらに編集部の日常業務を描くだけで終わっているのも物足りない。もっと物語を動かして、サカタを極端な状況に投げこみ、暴走したり四苦八苦したりするのを見せても良かったのではないか。むしろドタバタ劇向きの題材だと思うのだが。


茅野裕城子「103号室の鍵」(すばる) 「わたし」は、久しぶりに訪れたニューヨークでたまたま入ったカフェのトイレで、煉瓦と煉瓦の隙間から、一本の鍵を見つける。不意にそれが、二十年以上前自分が暮らしていた部屋の鍵だと気がつく。昔、まさにこの建物に住んでいたのだが、すっかり模様替えされてしまっていたので気がつかなかったのだ。彼女は若いころから海外のあちこちで暮らし、さまざまな国の男たちと恋をしてきた。いろいろ楽しいこと辛いことがあったが、今ではその自分も中年女になってしまった。いささかほろ苦い気持ちと、まだまだこれからの人生を楽しむのだという決意が入り混じる。
 奔放に生きてきた中年女性の感慨を描いた私小説風の作品。偶然訪れた店で、何十年前に無くしたきりになっていた部屋の鍵を発見というのはいくらなんでもやり過ぎだと思うが、まあそれはいいとしよう。だめなのは、そんな都合のいい道具立てを使っても、何の見せ場も作れず、単なる中途半端な回顧に終わっている点だ。ベテランらしく文章はなめらかに流れてゆくものの、構成らしい構成もなければ、吐露される心情も凡庸なものなので、どうにものめりこみようがない。正直ヤマもなければ落ちもない、ただありふれた情景が平板なリアリズムで描かれているという悪い意味で純文学的な作品にとどまったと思う。彼女はまだ恋も性の喜びもあきらめておらず、今も旅の合間に数年ぶりの情人と逢引したりしているのだが、この男も断片的にしか描かれない。こうやってぼやかして書くのが文学的だということになっているのだろうか。それよりも、くっきりと印象的な人物造形に注力した方がいいと思う。それにしても、どうしてどれもこれも青春時代の回想ばかりなのだろう。

松井周「そのかわりに」(すばる)
 これはかなり奇妙な作品だ。「僕」は三十歳の勤め人。高校時代の友人北山の通夜の晩、よく三人でつるんでいた牛久保から、北山が自殺であり、しかも籍の入っていない子どもがいることを知らされる。子どもの母親は頑なに北山との関係を認めようとしないため、子どもは自分の父親が誰か知らない。そこで、まだ幼いその子(タカシ)に、北山の記憶を残しておいてやろうと牛久保は持ちかける。具体的には、北山のことを絵本にして保育園のタカシにわたすことになる。
 ところが、話は思わぬ方向に転がっていく。牛久保は以前からタカシに執拗に近づこうとして、母親(日高さん)からストーカーとして訴えられていたことを知る。真実がどうあれ、牛久保がかなり頭のネジが外れてしまっていることは確からしいし、牛久保が書いている絵本の原稿もどんどん奇妙なものになっていく。さらに日高さんからは衝撃の告白もある。一見サスペンス調のシチュエーションから始まって、物語がつねに予測の斜め上を行くのが心地よい。それも派手などんでんがえしでも、ポストモダン風のこれみよがしの逸脱でもなく、いつのまにか話があさっての方向に向かっているというさりげなさが今風だ。
 幾らか深読みするなら、この作品の登場人物は、牛久保をはじめとして死んだ北山にしろ、退職を迫られながらぼんやり絵本作りに没頭している「僕」にしろ、例外なく大きな歪みを抱えている。彼らは個々の現実からどこか遊離してしまっていて、直面する状況にとんちんかんな、あるいは妄想的な対応しかできない。牛久保の欲望は、実はかつて北山とのあいだにあった疑似家族を再建することなのだけど、それ自体既存の家族、コミュニティに適応できないことを前提としている。けれども、彼らの病は、現実にはのんきでボンクラなふるまいとしてしか発揮されない。愛すべきダメ男ぶりと、根深い狂気が表裏一体となっている。その白々と明るいうすら寒さが、どこか現代的に感じられるのだろう。
ありがちな落とし所に着地することなく、物語はぼんやり開かれたまま終わる。はっきりいってラストは弱いと思う。しかし、分類しがたいユニークな作品としておもしろかった。

古谷健三「ハニィ」(三田文学
 作者は一九三四年生まれというから七六歳だろうか。最年長「新人」記録更新に違いない。ちなみに慶応義塾名誉教授だそう。老年にさしかかった主人公に、あの「ハニィ」が死んだという連絡が来る。歯をニィと剥きだして笑う癖のある幼馴染で、子どもの頃から、性的な魅力で主人公を惑わしてきた。成人してからハニィはストリッパーやポルノ女優をしていたらしいが、数年に一度顔を合わせるか合わせないかの関係だったにもかかわらず、お互いにつねに気になっていた。ハニィの通夜に顔を出して、彼女との切れ切れの交情を追憶するという内容。
 結局これはハニィという人物をどれだけリアルに造形できるかにかかっているわけだけど、どうしても「聖なる娼婦」といったタイプの都合のいい類型にとどまっている感じがして仕方がなかった。ハニィは性的に早熟なだけでなく、もともと卑小な男たちを見透かすような崇高さを備えた少女(幼女)という設定になっている。しかし、現実社会では彼女は堕ちていく。一方男たちは出世していく。しかし彼女が汚れれば汚れるほど、幼馴染の男たちのあいだではハニィが輝かしい存在になっていくという構図で、紋切り型ではあるが、細部が充実していればまだそれなりに説得力が持てたかもしれない。だがそのディテールに生彩がないうえに、要所要所のイメージがやけに下卑ていて安っぽいのも問題だ。ハニィの最期が、ラブホテルで若い男に抱かれながらの死だったなんていうのもそうだし、小学生の女の子が、男の子の顔を股間におしつけながら、「女にとってね、初めて肌を許した男は一生忘れられないんだよ」なんて言うわけがないに決まっている。

松本智子「バブルシャワー」(三田文学
 「わたし」は大学時代の友人だったケンの結婚式に出席している。学生の頃いつも一緒だったケンとカズ、そしてヒロキという親しい男友達たちも今ではそれぞれ別の人生を歩んでいて、あまり会うこともなくなってしまった。結婚式の様子に、過去の仲の良かったころの会話が差し挟まれる。しかし、結婚式での青春時代の回想ときては、安手のテレビドラマじゃあるまいし、紋切り型過ぎてお話にならない。もう二ひねりくらいないとどうにもならないだろう。

宮内聡「大事な仕事」(三田文学
 腑に落ちない部分が多々ある。内容を説明すると、主人公は離婚経験のある男だが、今は別の女性と暮らしている。一か月前に祖母がひったくりにあって怪我をしたことを恨みに思って、毎夜近所を徘徊しては、ひったくり犯をつかまえてポケットのノミで殺してやろうと決意している。
 まず納得できないのは、主人公と元妻との関係だ。離婚を経験したのだから、それなりに怒りや憎しみの記憶が身にしみついていそうなものだ。ところが元妻は何の葛藤も感じさせずやり直そうと身を寄せてくる。交わす言葉もほとんど恋人のようだ。この部分に端的にリアリティがない。またこの男はかなり暴力的な人間である。例えば、一般に一緒に暮らしている女の連れ子に愛情を持てない、うまく接することができない、というようなことはあるだろう。しかし、だからといって、自分はその連れ子とは関わらない、と宣言してしまうのはかなりのものだと思う。けれど、不自然なのは相手もわりとあっさりとあきらめて受け入れている点だ。そのほかの振る舞いからいっても、どうみても独善的で衝動的で、ずいぶん厄介そうな男だが、どうも周囲はそう考えていないらしい。そして、肝心のひったくり犯を殺してやるという決意がよくわからない。祖母が寝たきりになったとしても、なぜ一気にそういう結論になるのか。もともと理屈の通じない規格外の人間なんだ、といわれればそれまでだが、読者を納得させるためには、狂人にも狂人なりの論理が必要だろう。
 このようにキャラクターに難があるのだが、さらなる問題は、この男の調子の外れた言動が、結局物語をどこにも導いていかない点だ。出来事が出来事を生まず、ちょっと変わった人間の心象風景で終わっている点が物足りない。

片野朗延「廃神」(三田文学
 「廃神」というのは実はネトゲ廃人のこと。つまりゲームに夢中で社会生活を送れなくなった人間を指す。語り手の兄はもともと画家を目指していたが、画業では喰えず、会社勤めも些細なことからやめてしまい、その後は絵も描かずゲームに没頭するだけの引きこもりになってしまう。困惑した親は縁切りのつもりでワンルームマンションを貸し与え、兄はそこにひきこもったまま完全に親兄弟とは疎遠になる。ところが、贈与税がらみで親とのあいだがトラブル模様になり、あわや兄は路上に放り出されるかというところで、突然母親が倒れ、唯一冷静に対応した兄によって一命を取り留める。それまでまったく無能で、人にも無関心と思われていた兄の別の一面が見え、ほのかな希望がさしてきたところで結。
 一見飄々としている兄の姿から、引きこもりをやめられない苦しさ、焦りが伝わってくるのがなかなかいい。兄は自分で言うほど開き直っているわけではなく、何とかしなければならないと思えば思うほど、身動きがとれなくなっていくという隘路にはまっているわけだ。どこか距離のある弟の語り口もいいのだろう。兄が飼っていた亀を埋葬する場面などはちょっと印象的。
 不自然なのは、一人暮らしの兄がどうやって食事や最低限の買い物をすませているのかという点だ。収入だってゼロでは生きていけないし、ネット料金も払えない。それと「私」の仕事である「パソコンの事務員」って何だそれ。そのような瑕疵はあるけど、全体としては現代的な心情を描いて悪くない。ただ、人物スケッチに終わっている点は残念。


 村松真理「三十歳」(三田文学
三田文学』は現在、各社の文芸誌のなかで一番文芸誌らしい文芸誌だという印象がある。具体的にはどこかオーソドックスで端正な印象の作品と出会う率が高い、ということだ。とりわけ、若手の女性作家には「三田カラー」とでも言いたくなるものがある。特徴をあげれば、若い女性の心理・生理を整った文体で、息苦しいほど稠密に描いていくものが多い。他誌では見かけない名前なので、三田文学編集部が育てた若手なのだろう。大雑把を承知で言えば、『文藝』から出てくるティーンエイジ作家と真逆の作風だとひそかに思っている。
 こういう言い方を作家がどう思うのか知らないが、村松真理も「三田カラー」の一人だ。そして個人的には大いに好みである。まず文章が心地よい。口ずさみたくなるような印象的なフレーズが幾つもある。海外から帰ってきた幼いころからの友人との時間を描いているのだが、一瞬の心情を描いて巧みであり、清潔感もある。
 にもかかわらず、残念なことに記憶に残る作品とは言い難い。それは結局のところ、とても繊細に、そして優等生的に、瞬間的な空気感、心理の揺れを書いているだけだからだ。ここには時間、動き、変化がない。「私」とミイは、出会ったときと同じ関係のまま別れる。新たな認識や決意も訪れない。けれども、短編小説を読むとき、読者が求めるのはささやかなイニシエーションではないだろうか。目の前の風景がさっきと少し違って見えるというような体験こそが醍醐味ではないだろうか。

西元綾花「鰐と海藻」(三田文学
 これも三田カラーの一人。前作の「白牡丹μは鯖の目に咲く」同様、まだ性的な経験のない若い女性の自分の身体への違和感を描く。大学生の秋菜は、簿記検定の試験勉強のため塾に通っているが、そこに勤めている戸田から、性的な眼差しを向けられてうとましく感じている。一方、同性の弓子さんには漠然とした好意を感じている。冬のある日、弓子さんの部屋で偶然彼女の肌に触れて息苦しいような興奮を感じるが、それを恋だと思い定めることはできない。
 繊細な筆致で、自分が性的な存在であることへの戸惑い、苛立ち、喜びを記述していて読ませる。個人的には昔好きだった鳩山郁子という漫画家を思い出した。ただ、もう少し世界に広がりがあるとよかったと思う。前作から考えても、この作家はこのような世界を書き継いでいくのだろうし、それはとても完成度の高いものなのだが、これだけだとごく限られた読者にしか届かないような気がするからだ。

塚越淑行「三十年後のスプートニク」(文學界
 邦夫は、これまで長年介護してきた母親を施設に入れたのを契機に、自分の人生を見直そうと昔暮らしていたイギリスを訪れる。三十年ぶりのロンドンは大きく変貌していて邦夫を失望させるが、長らく心の底に沈めていた恋の記憶をよみがえらせもする。ヴァカンスでロンドンに来ていたマリとは、ディスコで出会い、その日から十日間セックスを繰り返したのだった。邦夫はマリとつきあうことを熱望するが、マリは故郷では私は別の人間になるのだと言ってノルウェーに帰ってしまう。その後邦夫も帰国するが、マリの言葉はいつもどこかで意識していたのだった。そのマリから、三十年ぶりに会っても構わないと手紙が来る。
 ずいぶん素直な話であり、ちょっとメロドラマ風でもある。なにしろ異国で青春時代の恋を回想するストーリーなのだ(いっそのこと、もっとガシガシメロドラマ路線で突っ走っても良かったのではないかという気もするが、それはたぶん作家の志向とはちがう)。主人公はおそらく五十代だが、未婚で、いまだに昔のアヴァンチュールの相手を気にかけ、ラストであらためて文学への志を語るような万年青年といった風情の人物だ。このアクのなさ、人の良さが作品のカラーを決定している。他愛もないと言えば他愛もない話だけど、わりと気持ちよく読むことができるのは、この主人公の素直さあってのことだ。それと相手役マリの、冷たさ(毅然とした態度)がきちんと書けているも、大甘の話になるのを救っている。
 とはいえ、どこか古めかしい話であるのは確かである。

三並夏「四つ目の椅子」(文藝)
 以前読んだ「嘘、本当、それ以外」(文藝)よりもずっといい。前作は、学校という閉鎖的な空間の中で空気を読みあったり、ヒステリー的な演技に走ったりする十代を描いた群像劇だったが、今回は作者と(おそらく)等身大の女子大生の目から、「家族」という虚構への不安と愛情を語っている。
 三人家族のほたるの家の食卓には四つ目の椅子がある。それは、流産してしまった弟のための椅子だという。つまりこれは、彼女の家が不在の息子の存在によってひとつにまとまっているということのメタファーなのだ。彼女の父と母は表立って争うことはないが、ほたるはどこか二人のあいだの食い違いのようなものを感じている。芽衣と沙織というほたるの二人の友人の場合は、ともに両親が離婚しており、家族というものの脆さがはっきりと目に見えるようになっている。二人はそれぞれ、義理の母、義理の父と一緒に暮らしながら、一生懸命家族をやっている。彼女たちが仲がいいのは、お互いそのけなげさに共感しているからだろう。
 改めて思ったのは、この世代にとって(という言い方が乱暴なのは承知しているが)家族というのは〈演じる〉ものになったのだなあということだった。ほたると父が母親の誕生日を祝うシーンがあるが、三人は別に仲が悪いわけではないのにもかかわらず、どこかそこには必要な役割をプレイしている感が漂う。芽衣、沙織の場合、彼女たちの家族ははっきり再形成された人工物である。芽衣はほたるに、ファミリーワゴンのコマーシャルに出てくるような家族なんてどこにもないのだけど、そうしたものを目指す「心意気」が大切なのだという。つまり心はバラバラでも、そうしたイメージを演じる態度にしか家族の実質などないと言っているのだ。そこにアイロニーの響きはない。彼女にとって家族は、努力なしには成り立たない幻想なのだ。
 文章にしろ、内容にしろ、とにかく素直でのびやかな印象。二十歳の作者が感じている不安やためらいがけれんのない態度で記されている。この濁りのなさが最大の美質だろう。この点では、本当にいいものを持っていると思う。

井村恭一「妻は夜光る」(文學界
 とても仕掛け、たくらみの多い小説だ。芸がないのが芸みたいな顔をしている作品の多い純文学の世界ではそれだけで貴重だ。実際、大した力作だと思う。日常系ゾンビ小説という新ジャンル(?)をつくった作品であり、また料理・食事小説でもある。
 舞台は住民年齢の高そうなとある公団住宅。猫から感染したツォという奇病が広がり、主人公の妻もそれにかかってしまう。ツォに感染するとすぐに死んでしまうのだが、死んだ後も一日三時間ほどは起きてきて普段と同じような生活をする。ただしどういうわけか食欲が昂進し、それも肉料理ばかり食べたがる。主人公は封鎖された団地内で生活しながら、毎日妻のためにせっせと肉料理を作り続ける。妻が旺盛な食欲で次々に料理をたいらげていく描写が印象的。また、噛み合っているようで飛躍だらけの妻との会話もうまい。
 団地は、役所から派遣されたセキグチという男によって外部との交通を遮断され、管理されることになる。しかし実のところ、セキグチが行うのは食料の配布や花火大会の開催だったりして、団地の日常生活はおおむねそのまま維持される。事実、ツォ患者(死者)たちの毎日は、リタイアした老人たちの日常そのものだ。だが皮肉なことに、死んでからの方が死ぬ以前より健康・健啖であり、不死に近いという逆転が起きている。
 おかしなことばかり起きる小説だが、その奇妙な出来事が細部までかっちりと造形的に作られているので、妙な妄想につきあわされるわずらわしさはまったくない。ディテールまできちんとピントがあっていて、曖昧なごまかしやぼやかしがない。作品の基調に妻を失った切実な悲しみがあり、しかしその死んだ妻が隣で生活しているという困惑するしかない状況が、暗いユーモアを醸しだしている。
 この奇妙なダークファンタジーが描いているのは、端的に言って死後の世界である。しかし冥界というのは、幾らかスローモーになり、光度の落ちた日常以外ではない。そこで人々は生前と同じことをくりかえすが、そうした行為には、意味や変化といったものが抜け落ちてしまっている。ツォ患者たちは団地内の広場で会合をしたり、煙草を吸ったり、バーベキューをしたりするが、それらは過去の行為を焼き増ししているようなものなのだ。
 オリジナルな世界観、ゆるぎない文章、きっちりつめられたディテールと、とても実力のある作家である。もっと読まれてもいいはずだ。膨大な数の読者を獲得はしないかもしれないが、この作風が好きだという人は一定数必ずいると思う。

松波太郎「東の果て」(文學界
「おれ」は、祖母の葬式のために行った熊野で、始皇帝から童子童女を与えられて不老不死の霊薬を探しに出たという除福がたどりついたという伝説があることを知る。幼いころ、祖母が除福について語っていたことも思い出し、興味を持つ。東京に帰ってから、肉体労働をこなしながら「原典」(司馬遷の『史記』)にあたっていく。
 除福の謎を探るという歴史ミステリー風でもあり、そこに大陸から出稼ぎに来ている中国人への関心が重なり、さらに父や祖母といった一族への思いも絡む、ととても構えが大きい。しかし実際にはどれも中途半端に終わってしまったようだ。これは勘だが、武田泰淳が好きで、泰淳風の八方破れの作風も念頭にあったのではないか。むろん実際には、うまく形にならないままの小説的モチーフがあちこちに投げ出されたままという印象。けれど、なぜだかこの作者には好感を持たせるものがあり、いい資質を持っていると思う。自然に対象(この場合は中国)への愛情が伝わってくるからだろうか

柴崎友香寝ても覚めても
 呆然とした。奇妙で斬新な作品。ほとんど実験的といってもいいような作品。けれどもそれが生硬な観念に導かれてではなく、ただひたすら事物をまっすぐに見つめるという固有の性向から生まれてきたことの驚き。柴崎友香が、どこかふわふわとしたガーリーな世界を描きつつも、余人に真似のできない特異なスタイルを生みだしつつあることはわかっていた。しかし、これほどまでにラディカルで野心的な作家だったとは思わなかった。粗筋の紹介はあえてさしひかえるが、ただ十年に及ぶストレートでクレイジーなラブストーリーだとだけ言っておく。冒頭からまず通常の小説では見られない異様なたたずまいに驚かされる。奇をてらったことは何一つ書かれていないのだが、事物が、風景が、物語の一部になることなく写真のようにただそこに存在しているのだ。それはハイパーリアリズムを思わせるが、読み進めるにつれて、この作品が単に鮮明なイメージをそのまま切り取るのではなく、像とそのコピー、フレームの内と外を巡る複雑なゲームとして構成されていることに気づく。それも言葉による議論ではなく、イメージの反復と二重化という具体的で小説的な操作を通して。この作品ではイメージは写真やテレビ、または他人の空似によって必ず二つに分裂するのだ。ところが終盤に近付くと、激しい情動の波がこの実践的な思弁とひとつになる。物語がうねりだし、緊迫感がピークに達する。ラストまでは一気呵成だ。


蜂飼耳「阿夫利山」(三田文学
思わず何度も読み返してしまう。ちょっとホラー風味もある幻想的な短編だが、文章がとにかくすばらしく読んでいて心地が良い。また構成もまったく隙がない。ごくごく短い作品なのだが、一行一行のなかに動きや出来事があるので、すごく濃度が濃い。蜂飼耳という作家は、名前だけ知っていても読んだことがなく、詩人・エッセイストという認識だったのだが、これは名手だと思った。阿夫利山という山の途中で親譲りの豆腐屋をひらく女のもとに、古い友人が訪れ、そこから少女のころ出会った男の記憶がたぐりだされる。懐かしいようなちょっと怖いような記憶の断片であり、行き場のないパズルのピースのようなものである。

喜多ふあり「望みの彼方」(群像)
 つくづくこの作家とは合わないのだと思う。正直、何をしようとしているのかさっぱりわからない。世代の違いということもあるだろうが、それだけでもないような気がする。僕の感覚では、これは作品として未完成であり、作者の生の感情がそのまま露呈してしまっている。フィクションへと昇華する手続きが踏まれていない。けれども作者は、小説の形に収まったら取り逃がされてしまうような部分にこだわっているのかもしれず、だとしたら仕方がないのではないか、とも思われる。少なくともこの人は文芸誌で居心地の悪さを感じているのではないか。しかしかといってエンタメ系にいけるほど読ませるテクニックがあるわけでもないのが辛いところだ。
 約半分を占める殺人犯の逃亡手記の部分では、人物がどうにもチャチで安っぽくうすっぺらに書かれている。これが、単に作者の技術不足なのか、それともわざとやっているのかわからない。あと半分は作者を思わせるような若い作家が、自分は何ごとも「本気」になっていないということで自分を責める、というもの。