「文學界」5月号新人小説月評

風邪の子どもの世話であやうくアップし忘れるところだった。5月号。

「群像」が、新鋭短編競作と題して8編の作品を並べている。一編400字詰め原稿用紙で3,40枚といった短さのせいもあって、強烈な印象の作品はない。ただ偶然にも、オーソドックスなリアリズムの作品と、「本当らしさ」を顧慮しない抽象的で観念的な作風が半数ずつに分かれた。ただ、後者のなかで、観念としての手続きをきちんと踏んでいるのは朝吹真理子だけであったように思う。他の作品は、選びとられたスタイルに必然性が感じられず、単なる作家の奇矯な思いつきでしかないような印象を与えてしまう。あと、朝吹真理子、天もと浩文、喜多ふありの三人が、いずれもラストでいきなりメタの視点に立つという落ちをつけていたのは偶然なんだろうか。
 この点、リアリズムには強みがある。なぜこのように書かなければならないのか、という問いが読者の頭に浮かぶことはないからだ。実際のところ、ちょっとひねりのある丸岡大介を除いて、リアリズム勢の作品はどれも安定感があり、それなりにおもしろかった。ただ、もちろん安定感とは平凡さの別名でもある。枚数のせいもあるとはいえ、どれもこじんまりした印象ではあった。

 朝吹真理子「家路」(群像)
平凡な中年男の数十年に及ぶ半生をビデオに撮り、それを超高速で早回ししてみた、といった趣の作品。あるいは数百枚の似通った写真を次々に重ねてみた、といったところか。「群像」の作品の中で、唯一明確な方法意識を感じた。二十代のなかでは数少ない抽象的な主題を扱える作家だと思う。ある中年男性が、イタリアらしき湖畔で寝そべっているという叙述から始まる。彼はつい先ほど(?)都内の勤め先から帰ろうとしていたのだが、ふと気がつけばそこにきている。なぜそうなのかは自分でもわからない。それから男の若き日から中年の今まで――あるいは、もしかしたら老年までなのかもしれないが――の情景が矢継ぎ早に語られていく。そこにあるのは通常の日常的な時の流れではなく、あらゆる日が同じ日であり、一生が一日であるというような感覚だ。過去と今が混然とし、現在の風景のなかに過去が見える。過去と現在をどうやって区別したらいいのかわからない。あらゆる現在が過去においては未来であり、あらゆる過去がそのときにおいては現在であったことの不思議。極めて濃厚であり、技術的にも揺るぎがない。

天埜裕文「捨鉢観覧席」(群像)
この作品と喜多ふありのものはまったく意図がわからなかった。彫刻家である彼とその妻か恋人であるらしい彼女、そして二人を見ている私がいる。前半は、私が観察した彼と彼女の関係についての記述がつづく。後半は、ある「青年」が自殺の名所であるらしい橋に向かおうとする途中で出会う出来事が描かれる。エピソードにもなっていない断片がただ並べられている。意味がなく、笑いもなく、人物も生きていないというのではどうすればいいのか。それから、喜多ふありと同様、楽屋落ちめいたラストさえつければ、何をやってもいいというのはふざけた話だと思う。
 
戌井昭人「ぐらぐら一二」(群像)
 これはおもしろかった。今、ポケットのなかに自分の指が二本入っているという告白から始まる。この「僕」はつまらないミスで指を切断してしまったのだが、そのときの描写がすごい。「僕は印刷屋で配達のアルバイトをしていた。その日は裁断屋さんに寄ってスーパーマーケットの特売チラシを受け取り配達する予定だったが、チラシの裁断がまだ終わっていなくて、待っているときにボサッと裁断機に手をついていたら、刃が降りてきて、ゆっくりスパンと指が切れてしまった。」何がすごいといって、もちろん非日常的な出来事が、かくも平凡に語られるのがすごいのだ。「ゆっくりスパンと」というのも怖いと同時にどこか間が抜けている。とにかくこの語り手は体温が低い。呑気というか、緊張感がないというか、指を無くしたのも、ちょっとした忘れ物くらいの感じで、淡々と受け入れている。もちろん、投げ遣りだったり無感覚だったりする主人公というのは、現代小説では珍しくもないのだが、そういうのとも少し違う。変に自然体で、肩の力が抜けまくっているのである。
 これは主人公だけではない。あとになって見つかった指を「僕」が裁断屋に取りに行くと、裁断屋のおばさんは慰めるようなことを言って、茶封筒に入った指と一緒にみかんをくれる。「僕は指の入った封筒をポケットに入れ、みかんの入ったビニール袋をぶら下げ裁断屋さんを出た。」半ばミイラ化した指と、人の良いおばちゃんがくれるみかんというとりあわせがなんともとぼけた味わいを醸している。
 こんなわけだから、ドラマティックな展開があるはずもない。語り手は指をどうしたものか思案したあげく、魚に食べさせようと海のある地方都市に行く。そこで指を海に投げ込んだあと、新興宗教の団体らしきものと遭遇したりといった小事件があるのだが、明快な落ちやクライマックスはない。けれどもこの貧乏くささと明るさが同居した感じは悪くないし、あまり類例のないものだ。


喜多ふあり「プチ家出
「私」は一緒に暮らしている男から虐待に近い扱いを受けているが、それでもまだ男に執着している。男は新しい女リリコを引き入れており、「私」は以前自分が前の女を追い出したように、男に追い出される羽目になるのではないかと恐れている。寝場所を失ったときの準備に、ゴミをあさる場所を探していた「私」は、自分とよく似たみすぼらしい女と出会い、リリコをゴミ捨て場に突き落として殺すことを勧められる。
 背景はすべて書き割りのように、人物はすべて人形のように書かれている。それはそれでかまわないのだが、作者はそうしたスタイルによって何を書きたかったのか、作品をどの方向にもっていきたかったのかまったくわからない。何のためにこうした共感も感情移入もできない書き方が必要だったのか、という疑問だけが残る。ラストに、この「私」というのは人間ではなくどうやら猫らしい、という種明かし(?)があるのだが、だからなんだ、という感想しか持ちようがない。

羽田圭介「テキサスの風」
 もしかして木下古栗とか意識してるんだろうか。わざとらしい文体とキャラクターで、荒唐無稽な出来事を語るというスタイルだが、ギャグのキレが悪くて失敗している。結局この種のものはスピード感が大事であり、もたついてしまってはダメなのだ。また脱線や逸脱がなく、ストーリーが単調なのもマイナスに働いている。

墨屋渉「きずな」(群像
 主人公庄司は、ある日これ以上働く気持ちを無くし、会社を退職する。妻も子もいるのだが再就職にも気が進まず、ぼんやりしているうちに昔のクラスメートが、知的障害を持っている子どものためのNPOを運営していることを知る。なぜか手伝うことを申し出てしまった彼は、初めて触れた知的障害児の姿に、社会人としてのこれまでの人生ではまったく目も向けなかった領域があることを感じる。
 こうした出来事が、児童向け読み物風のスタイルでつづられる。主人公がなぜ働く意欲を失ったのか説明はないし、知的障害児と出会うことで何が変わったのかも描かれない。ただ、いかにもこうしたことはあるだろうな、と淡い共感を誘う。
 結局、この作品の長所も短所も、この墨絵めいた淡白さにあると思う。主人公はただ何となく、じりじりと追い詰められていく。自分が、あるいは周囲の人間関係が少しずつ変化していることには気づいているが、それがどのようなものなのかは明瞭に意識されない。これは現実の我々の生活の常態であり、その意味でこの作品のリアリズムは日常から離陸していない。そこに、鮮やかだとか生々しいというのとはちがう、ぼんやりとしたリアリティがある。
 ただあまりに淡すぎ、こじんまりとしすぎてやしないかという疑問が残る。もちろんそれは意識的に選択されたものなので、文句を言っても仕方がないのかもしれないのだが。

岡大介「深海」
 デビュー作「カメレオンのための戦争練習帳」は傑作だと思ったのだが、これはちょっと「?」という感じ。一応リアリズムに分類しておくが、実は怪しい。丸岡大介というのは、語りに周到に仕掛けを仕込ませるタイプの作家であり、この作品でも、中年夫婦の平凡な沖縄旅行を淡々と描写しているように見えて、それがフェイクなんだよという合図だけは、凡庸に過ぎる人物描写や文章の違和感としてしっかりと埋めこまれている。しかし、「カメレオンのための戦争練習帳」では、複数の語りが定位するそれぞれの「現実」が回転ドアのように入れ替わるところが魅力だったのに、この作品にそのダイナミズムはない。すると結局、ただの凡庸な沖縄紀行になってしまうのだ。


三輪太郎「ジュ・トゥ・ヴ」
 題名はフランス語で、私にはあなたが必要だ、の意。父方の親戚の死に怪事が伴うことから神秘主義思想の研究を志した主人公が、精神的行き詰まりから鬱になり、学問をあきらめてトレーダーに転身する。しかしその選択は父親の激怒を招き、勘当同然となる。20年後、病に倒れた父の危篤の席で、彼は自分が株の世界に惹かれたのも、神秘主義の場合と同様、世界という謎に迫りたかったからだと悟る。死を前にした父との和解、というテーマはもちろん目新しいものではないが、滞りのないなめらかな語り口が、そのことを意識させない。おもしろいのは株価の変動にヘーゲル的な「精神」――死を凝視することで自由を獲得しようとする普遍的衝動――を見るというくだりで、株の世界に身を投じた人間なら、なるほど、そう感じるのかもしれないと思わせる説得力がある。主人公にとって株の売買は単なるマネーゲームではなく、偶然の振る舞いのなかに必然性を見出すという哲学的探求として意識されているわけだ。
 そうした主題のおもしろさもあって、楽しめる短編になっている。

田山朔美「代理母豚」(文學界
 以前、この人の「魂おろし」という作品を読んで、しっかりとした構成力とエンタメ系にも通じそうな読後感の爽やかさに感心したことがあるのだが、その印象は今回もかわらない。主婦の美耶は、高校の同級生弥生から、昔の友達の留衣子が突然電話をかけてきたという話を聞く。代理母を引き受ける気があるかと聞かれたのだという。やがて美耶にも「福音の森」という不妊に悩む夫婦のカウンセリング施設に来ないかと誘われる。実は美耶は母子関係に問題を抱えており、母親から愛されたという実感を持てずにいる。そのせいなのか、夫とのあいだもどこか他人行儀で表面的だ。
 美耶は、母、夫、同級生といった周囲の人間とのあいだに、何らかの齟齬を抱えている。そこへ、美人で完璧に思えた過去の友人が現れ、徐々に壊れた精神をさらけ出していく。友人の妄念の根底にあるのは子どもが欲しいという強い思いだ。その思いに触れ、美耶も少しずつ母との関係を見つめ直し始める。
 複数のモチーフを適切に按配して堅実にストーリーをくみ上げていく力を評価したい。実際、純文学の世界では、この能力が軽視され過ぎていると思う。物語は最終的に人が子を持つことの意味といった主題に向かっていく。
 しかし疑念もないではない。母子の葛藤、幼いころの性的トラウマ、夫婦間のセックスレス、怪しげな新興宗教と、物語を構成するパーツのひとつひとつがいかにも「現代的」トピック、すなわち紋切り型に過ぎるのではないかということだ。どれもどこかで聞いたことのあるような話だという印象は否めない。また夫のキャラクターもいくらかご都合主義的なところがある。
 それと、どのエピソードでも、グロや荒唐無稽になってしまう一歩手前で踏みとどまっている感じがしたのだが、さらに一歩踏み込んでみるという選択肢はなかったか? 特に豚の子宮を借りるというイメージなどはすごく魅力的なので(題名はネタばれで良くないと思う)、もう少しエゲツナイ展開にしてもおもしろかったのに、などと思った。
うまい人であり、また真面目な人だ、と感じた。それだけにどこか優等生的にまとまってしまうところがあるので、次回はもっと大胆に書いていいのではないでしょうか、ということで。


広小路尚祈「うちに帰ろう」(文學界
 最近の小説では、主夫というのをよく見かけるような気がする。最初に出てきたのは村上春樹の初期短編(「ねじまき鳥と三人の女たち」など)ではないかと思うが、ここ数年はちっとも珍しい存在ではなくなった。全般に、三十代から四十代の男性作家が書く主人公というのがみな脱力系になっているのだ。彼らはある日ふと会社をやめ、自分は何をしたいのだろうと考えながらぼんやりと過ごす。あるいはまだ会社に所属していたとしても、いかにも適当だったり所在なさげだったりする。企業でガシガシ働いている男性主人公なんて、文芸誌では見た覚えがない。一方、女性作家の女主人公たちは、企業勤めにしろ、専業主婦にしろ、はるかに本格的に労働している印象がある。仕事のことで悩むのも彼女たちの方だ。
 広小路尚祈のこの作品も、そうした主夫小説のひとつ。この作品の特徴は、語り手が明確な行動指針・処世訓を持ち、その実践として主夫生活を送っている点だろう。修行というほどではないが、日々の生活が自分の信じる価値観を実現するための実践なのだ。その指針とは、物事を独断的に見ない、つねにバランスを考える、こだわりのないところでは妥協する、人間関係の円滑さを優先する、といったものだ。もちろんこれは、決定的な対立をいつも回避し、その場だけ糊塗するいかにも日本的な態度かもしれない。が、成熟した大人の対応だともいえる。
 中心人物は公園でのママ友のなかで浮いてしまっている「おれ」と美和さん。家庭がうまくいっていない美和さんは、唐突に「おれ」に心中をもちかけ、「おれ」はポリシー上すっぱり相手を否定したり、関係を断つことができないので、曖昧にごまかしていくうちにどんどん心中に追い込まれていく。この落語的ともいえる展開と本当に心中してしまうのかという興味が物語をひっぱっていく。一見さばさばしてドライに見えるが、妙な思い込みで心中を迫ってくる美和さんというキャラクターがおもしろい。

安達千夏「冬の鞄」(すばる)
 川上弘美の「センセイの鞄」とか、小川洋子の「博士の愛した数式」とか、女性が年の離れた老年男性の姿を愛情をこめて回想するといったタイプの話がある。べたべたの恋やセックスはちょっと、という人向けの変格恋愛小説であり、この場合、男性側のポイントは、ぎらぎらした性欲はすでに枯れ果てて、かすかなエロスの残り香くらいになっていること、基本的に紳士であり優雅さと優しさを備えていること、時流からはずれた日蔭者の地位にいるが実のところ有能で頭脳明晰であること、などなどだ。まあかなり女性に都合のいいファンタジーではあるけれど、別段それはかまわない。
 で、この作品は娘が父親の生涯を語る、という設定になっているが、実は偽装で、「センセイの鞄」タイプの素敵なロマンスグレーのおじさまにときめいちゃったわ、という話ではないかと思ったのだ。というのも、この父親像が妙に大甘で理想化されているように見えてならないからである。肉親の目ってもっと意地悪で冷酷なものではないだろうか。これは娘というより、恋に目がくらんでいる女の眼差しではないだろうか。
 断わっておくが、作者は恋愛小説を書いているつもりはないのだと思う。大真面目に父と娘の物語を語っているのだろう。だがそれが作者の本当の欲望とすれちがってしまっているのではないか。だから、読んでいて何か居心地が悪いのではないだろうか。
 語り手の父親は、腕のいい鞄職人だった。そこで語られるのは、祖父と対立して出奔した兄の後を埋める形で、父が地道に修業を積み、やがてすぐれた職人として全国に熱烈なファンを持つようになる過程である。彼は寡黙で優しく、教養があり、娘である私を全面的に愛してくれる。一方母親の方は、とかく旧弊で頭の悪い女として描かれている。それが余りに戯画的でわざとらしく見える(書き込みが足りないせいもある)。
 そして問題は、肝心の鞄職人としての父親が、どこかおとぎ話めいて手ごたえがないことだ。先に書いたとおり、かっこよすぎ、主人公にとって都合が良すぎるのだ。実はこの父親には同性の恋人がいて、ということらしいのだが(正直、この部分が判然としなかった。この恋人、失踪した兄と何か関係があるんですか?)、そのことも含めて娘の幻想の「父親」という感じがしてしまう。素敵な男性(父親)に愛されている自分、というナルシズムが作品の基底にあるような気がしてしまうのだ。
 あと、文章がどうも気になった。この人は文章に自信があり、また力も入れている人だと思う。だが、どこかでそれが対象を正確に記述することより、雰囲気に流れているように感じた。その文章への力みが、こわばったリズムを生んでいるとも思う。



松本薫「百年の献立」(すばる
 なんとも微妙な作品だ。松本薫は、「新人」とはいっても十年以上のキャリアをもつはずであり、それだけに文章や場面転換は充分にこなれている。しかし全体としてみると、どこかちぐはぐな感じが漂う。相互にどう関連するのかよくわからないモチーフが、ばらばらに投げ出されているのだ。まず、主人公である主婦妙子が毎日つけつづけている献立表がある。これは主婦業の終わりのなさ、単調さを象徴していると言ってよいだろう。妙子の十五年にわたる日々の労働が、十数冊の手帳のなかにおさまってしまうという不思議さ。いわばそこには、妙子の主婦という立場に対する誇りと倦怠がともに同居している。
 さらにこの感覚をつきつめると、相手か自分が死なない限り、決して解放されることのない「妻」「母」という存在への違和へたどりつく。妙子は、そつなく妻業、母業をこなしているわけだが、その彼女でも、娘が言い当てたように「お母さんをやめたい」と思う瞬間がないわけではない。自分で望んで妻や母になったのだとしても、である。
 これを第一のモチーフとするなら、次のモチーフは、娘がときどき連れてくるヒヨリという女の子の奇妙さだ。小学三年生の彼女は、首からかけた水槽に入っているウーパールーパーを、自分の兄だと言い張る。他にもいくつかおかしな振る舞いがあり、母親に虐待されているという噂もある。ここにあるのは、ヒトがヒトをつくり、血のつながりが連綿と続いていくということのうす気味悪さであるらしい。ヒヨリは、兄はニンゲンであることをやめて、進化したのだという。子を生み、育てる。家族を成す。誰もがあたりまえと信じている営みを、疑義に付す役割をこのヒヨリという子は担っている。
 このようにそれぞれのモチーフは切実でもあり、興味深くもあるのだが、実際にはうまく展開されておらず、消化不良の感を与える。モチーフが断片的なイメージに留まっていて、物語へとつながっていかない。ウーパールーパーにしろ、虐待にしろ、もっと幾らでもエピソードを膨らませられるはずだと思うのだ。結局、どこか中途半端な印象を与える作品になってしまった。

藤谷治「ふける」(新潮)
 藤谷治は、僕は未読だが、「船に乗れ!」という大部の青春小説で話題の作家。だが作家本人のブログによれば、これは自分のねじまがった気持ちをそのまま書いた読者のことなどこれっぽちも考えていない作品で(  )、万が一雑誌に掲載されなくても仕方がないと覚悟していたのだという。いや、文芸誌のなかでは全然読みやすい方ではないでしょうか。まったく読者を無視した作品は他に山ほどあります。
 題名はまず「授業をふける」(サボる、逃げ出す)といったときの「ふける」だが、「耽る」「更ける」「老ける」といった語も重ねられているのかもしれない。
 もう若くはない男が、仕事も家族も放り出して、深夜の新宿駅から適当な始発電車にのりこみ、確たる当てもなく旅を始める。いわゆる失踪・蒸発であり、最後には死を覚悟している気配も漂う。といっても脳裏をかすめるのは、しょせん下卑た中年男らしく、どの街でなら熟女プレイを楽しめる歓楽街があるだろうかといった下世話な妄念に過ぎない。作品はそうした「私」の思考を細かく追っていく。途中で、この世の外から来たような「坊主」と同行二人となり、金沢にまでたどりつく。
 明るい要素の何一つない小説だが、不思議と息苦しさはない。つねに移動していること、文章のテンポ、物語のリズムに破綻がないこと、そして本人が言うように作者の暗い心情が反映しているのだとしても、それを生の形でぶつけるのではなく物語へ昇華しているからだろう。確かに、深刻なものを含んではいる。それは具体的には、死(往生)への魅惑を意味する坊主というキャラクターとして現れる。しかし、語り手は最後には、この坊主と一緒にいることを選択するのであり、つまりは死の誘惑にさらされつつ、今のところは生き続けるということだ。僕はこれは中年の小説だと感じた。ひとつひとつの感慨が二重底三重底になっている。絶望しつつ、その絶望をポーズだと自覚している自分がいる。けれども若い自意識の鋭さとは無縁だ。短編ではあるけれども、きっとこの作者は粘り腰で作品を書くタイプだと思わせられる。この作品がきわめて優れているとは思わない。けれど、この作家は信用できる、と思った。


鹿島田真希「その暁のぬるさ」(すばる)
 鹿島田真希を読むのは奇妙な体験だ。何が問題となっているのかがわからない。何が起きているのかもわからない。何もかもが霧のなかのように茫漠としていて判然としない。しかし退屈だと感じないのが不思議なところだ。正確に言えば、自分が退屈しているのか興奮しているのかも今一つ感じ分けられないのだ。
 「わたし」は幼稚園の保育士。別れた恋人についての「わたし」の回想と、周囲の保育士たちの言動が織り混じる。平安の女房文学を連想してしまった。女たちの世界であり、日常の細やかな出来事と過去の恋とが、とりとめもないといえばとりとめもない筆致で語られる。作品を貫く基本的な感情は嘆きなのだが、それが同時にどこか紗がかかって感じられるのが鹿島田的である。婉曲にぼかして書いてあるわけではないが、話者の関心が、そもそも通常より斜め上の方向、形而上的な領域に向けられている気がするからだ。そのために恋人との小さなエピソードも、どこか神話めいて感じられる。
 話者は外界よりも自分の内側に目を向けている。というか、そもそも客観的な存在としての外的な出来事と、それに対する自分の感情を分けていないようである。恋人との関係を核とし、さらに数人の同僚との関わりだけが彼女にとっての世界であり、しかもその世界は彼女の揺れ動く感情によって染め上げられてしまっている。こう書くといかにもありふれた日常系の作品のようだが、平凡な日常がそのまま超越的な領域と地続きになってしまっている感覚が独特なのだ。

伊藤香織「苔やはらかに」(文學界
九州芸術祭文学賞。選評では九州弁を多用した妙に気だるい文体が評価されたようだが、僕はそうした小手先以前に大きな問題があるように思う。青臭いことを言うようだが、僕は小説というのは数多の例外はあるにせよ、基本的に物語を語るものだと思っている。そしてその物語を通して、個人が直面する様々な問題について思考するものだと思う。しかしこの作品には、物語もないし思考もない。あるのは憂鬱な私が周囲の善意にふんわりと包まれている、といった極私的な「気分」でしかないように思える。思考がない、というのは、作者は語り手を受動的に状況のなかでやすらわせているばかりだからだ。恋人と別れた。辛い。悲しい。そこまでは誰でも思う。思考するというのは、そうした直面する状況を再解釈、再定義し、異なる可能性を探ることである。それは例えば、どちらが悪かったのか? どこで誤ったのか? 本当に愛情があったのか? といった平凡な問いで構わない。むしろ小説的思考というのは、そうしたありふれた問いによって導かれる。けれどもこの作品には、最後まで残った携帯の彼氏の写真を消すといった、感傷的な場面があるきりだ。語り手と彼氏との関係がどのようなものだったのか、そこで何が起きたのか、はオミットされる。でも、やっぱりそこを書くべきじゃないのか? そこから物語が始まるんじゃないか? 作者はうすぼんやりとした悲しみを描けば、あるいは、移り変わる空の色などを詳細に描写すれば(さして詳細でもないのだが)文学になると勘違いしているような気がする。しかしそんなはずがないだろう。小説と抒情詩は違う。ただの「気分」ではなく、複雑な思考、活きのいい理路といったものが小説を活気づける。上手いか下手かではない。それ以前のスタンス、小説観の部分で納得がいかなかった。