「文學界」4月号新人小説月評

4月号の月評です。雑誌に載ったのは、基本的に下記の文章を縮めたものです。


総評
 今月読んだ作品のなかで、とびぬけた読後感を与えたのは青山真治だった。ごく短い作品だが、すぐれた小説ならではの一気に世界が広がっていく感触がある。一方、技術力を見せつけたのが古川日出男だった。この二人は、現在最も勢いのある作家たちといっていいだろう。また、若手ながら木村紅美と村田沙耶香の二人は、着実に安定した実力を蓄えつつあると思う。村田は、どこか異様な女性の心理世界の造形に巧みであり、木村は女性と女性とが一瞬関係しては離れていく描写にすぐれている。しかし、今回一番鮮烈だったのは小林里々子だ。未知の才能だが、注目していきたいと思った。


松本圭二「詩人調査」(新潮)
 アル中で停職中のタクシードライバーである園部のもとに、突然ヒラリー・クリントン似の宇宙人が現れる。地球は近いうちに滅亡することになっており、貴重種として「聖人」と「詩人」をサンプルとして保存することになっている。その調査のために、世に埋もれた詩人である園部のもとを訪れたのだ。
 こういう前提のもとに、園部の酔言混じりの回想として、彼の青春時代が語られる。はっきりいってSFとしての設定はあらっぽい。斬新さも整合性も、バカSFに必要な悪ノリもない。だが、この設定によって、園部が語る内容にワンクッション置くという効果はあったろう。ストレートに語られたとしたら、どうしようもなくしょぼく、暗く、イタイものになっただろうから。
 何が語られているのか。90年前後の思想系オタクのみすぼらしい青春である。

「表層と戯れる」というのがあの頃の倫理だったんです。ゲームの規則としては理解できるけんですけども、それをモラルとするのは難しいですよ。生き方の問題になってきますから。カルトに走るやつはアホで、ポストモダンをおしゃれ感覚で消費している連中が賢く見える。そんな雰囲気が主流だった。嘘だと。どっちもアホだと。わたしらはそう思っていたんです。

 はっきりいってイタイし、寒い。しかし、当時大学の思想研究会や政治研究会といった名前のサークル室でドゥルーズデリダやや中沢新一栗本慎一郎や丸山圭一郎や吉本隆明などを読んだり、あるいは読んだかのようにふるまっていた人間なら、どこかで思い当たる節があるのではないか。
 当時、まだキャンパスには伝統芸能化した新左翼党派が居座り、ときおりデモやシュプレヒコールをあげていた。一方、ニューアカ以降の「現代思想」に心ひかれるネクラ(これも当時の流行語)男子たちは、気分として「反体制」だった。今となってはほとんど語れることもないが、彼らの心情にはまだどこか70年代的なテロや暴力志向が影を落としている部分があったと思う。彼らは左翼や政治を馬鹿にし、浅田彰にならって闘争より逃走、ゴダール的な表象の政治こそ、リアルなポリティクスなんだなどとうそぶきながら、同時代のどこまでも登り詰めていくかにみえるバブルの宴には、本能的なルサンチマンを抱えていた。
 当時の園部は、大学の仲間たちと東京新都庁の爆破をもくろむなどできもしない計画をぶち上げながら酒を飲んでいる。本気でやる気などない。気分だけなのだ。そして、そのことも自分でわかっている。だからかえって虚勢をはり、支離滅裂なことをしてしまう。彼は結局見栄のために、古本屋で買った筑摩書房世界文学全集チェーホフの巻を使って爆弾を作ってしまう。このへんのテロへの敷居の低さも、オウムと911を経験した現在ではありえないことだ(作中、園部が爆弾を作るのはオウム事件の衝撃を受けてでもあるのだが)。それも仲間内でただ一人の美人女子学生に煽られたからというかっこ悪さだ。
 このあたりの情けなさ、駄目さ加減がこの作品の読みどころなのだと思う。少なくとも僕にとってはそうだ。はっきりいってゲロである。青春の記憶というすっぱいバケツ一杯のゲロをぶちまけているわけである。でも確かにこういう時代はあったことは記憶している。
 というわけで、読者を選ぶ小説である。80年代から90年代にかけて二十歳前後だった人たちのなかのごく限られた層には、つきささるものがあるかもしれない。しかしそうでなければ、退屈な話かもしれない。お話としての出来はあまりよくない。作者は自分の思いをぶちまけるのに性急すぎる。
 あと作者の詩人へのこだわりもわかりにくい。詩人であることがそんなに大層なことなのかと思う。詩人といっても、園部は詩壇に認められているわけではない。ただ、毎晩酔い潰れながら、PCに長編詩と称するものを打ち込み続けているだけだ。それが他人にどう映るのかはわからない。園部はただ酔っぱらってゴネている生活破綻者に過ぎないのだが、詩人というだけで人類を代表して宇宙人の研究対象になってしまう。



木堂椎「笑い飛ばして、笑い飛ばしてよ」(早稲田文学u30)
最近の若い世代の作品に多い特徴として、1.極めてせまい人間関係(主に学校)を背景に、2.明るく人気のあるキャラクターを演じつづけている主人公が、3.しかしそれが本当の自分ではないことに悩む、というものがある。これまでにとりあげた作品でいえば、先月の三並夏「嘘、本当、それ以外」がそうだし、白岩玄の「海の住人」にもそれに近い感覚がある。中心となるのは、過剰な対人関係のなかでの自分と、一人になったときの自分の乖離という、ある意味では、だから何、といった程度の主題なのだが、十代から二十代の書いた作品にくりかえし現れるところをみると、それなりに切実な問題なのだろう。前提となるのが、過酷なスクールカーストの存在であり、周囲の人間のなかで優位な(または居心地の良い)ポジションを獲得しなければならないという焦燥感である。しかしそこでうまくふるまっているものほど、じゃあ素の「自分」って何だろう、という空虚感にさいなまれるというわけだ。
 「笑い飛ばして、笑い飛ばしてよ」は、この傾向の典型的な作品。主人公は大学サークル「紅茶研究会」で一番の美人として、華やかな学校生活を送っている。だが実のところ、中学校では地味でつまらないやつとしていじめられていた過去がある。当然中学時代のことは封印しているのだが、そのサークルに中学の同級生鏑木が入ってきて彼女は動揺する。そればかりか、鏑木は、過去のいじめ体験を笑い飛ばせないこと自体が、まだ囚われている証拠だと指摘して、彼女を追い詰める。最後に彼女はサークルメンバーの前で自分の過去を告白する(のだが、このあとにもうひとつ大きなどんでん返しがある)。
 文章やキャラクターはライトノベルに近い、ということはつまり身体性の希薄な文章だ。それだけに深刻にならずすいすい読める勢いがあり、そういうのが好きな人にはいいかもしれない。



羽田圭介「御不浄バトル」(すばる)
 「僕」は平凡なサラリーマンだが、毎朝出勤前に駅ビルのトイレで排便することを心の安らぎとしている。就業時間中も、しばしばトイレに行ってくつろぐ。彼の勤め先は、限りなくブラックに近い中小企業だ。業務は世間知らずの主婦に高額な教育教材を売り付けることで、弱者を喰い物にしているといってもいい。「僕」も当然そのことは意識しているが、同時にこれが仕事だからと割り切ってもいる。私事だが、僕の友人にも似たような会社に勤めているものがいた。彼はとても頭がよく、正義感も強かったのだが、結果としてこの種の企業に勤めることになってしまった。コースから外れてしまった人文系院生の行き場など、塾でなければこうしたいかがわしい企業くらいしかない。それを非難するのはのたれ死ねというようなものだ。彼は会社の内情をおもしろおかしくギャグのように語っていたが、実際にはかなりきついものがあったと思う。一年くらいして、彼が退職したことを聞いた。おそらくメンタルか肉体かのいずれかに失調をきたしたのだろう。その後、交流が途絶えてしまったが、どこかで元気に働いていることを祈る。
 そういう個人的な事情もあって、会社の部分がやけにリアルに感じられた。語り手は自分の仕事内容をそれほど深刻に思い悩んでいるわけではない。けれどどこかで負い目は感じている。またやっていることは詐欺に近いと言っても会社の雰囲気は、平板でどこからのんびりとさえしている。つまり、何もかもが中途半端なのだ。退屈な日常とかすかな罪責感。ほんとうにこのままでいいのかという焦燥。それさえも曖昧に輪郭がほどけていく毎日の慣れ。「僕」がトイレで休息したり、食事をとったりすることにこだわるのは、そこがサラリーマン生活のなかの数少ないプライベートなスペースだからだ。彼はわざわざ就業時間中にトイレに弁当を出前させて楽しんだりする。もちろんそれはささやかな反抗であるにはしても、しょせん遊びでありゲームである。いわば「本気」にならないこと、つまり真剣に懊悩したり、辞表をたたきつけたりせず、かといって会社に完全に順応したりもしないというルールが彼を支えている。
 ところが物語の進行につれて、この会社が予想以上にやばいところであることがわかってくる。「僕」はなんとか会社が自分をやめさせるように仕向けようと画策する(辞めさせられた、という形の方が失業保険を貰うのに都合がいいからだ)。その過程で、語り手も微妙に狂気に接近しているような気がするが――トイレの個室にダッチワイフを持ちこんでオナニーをする、というのはすでに壊れているのではないか――結局のところ最後まで、デタッチメントの態度を崩すことはない。
 結局、何も変らない、という物語なのだと読んだ。主人公は事件といっていいものにまきこまれるが、何も成長しないし、生き方も変えない。会社が摘発されてもたぶん彼自身の人生はさして変わりがなさそうだ。彼は絶望しているわけでもない。何も起きない、何も変わらない。だから、何にも本気にならない。そして毎日をそこそこ楽しむこと。排便のようなささやかな快楽もしゃぶるように堪能すること。これはこれで、現代にふさわしい倫理なのかもしれない。


青山真治「患献相殺式情始末」(すばる)
大学教員らしい夫と、イラストレーターの妻。妻がふと思い立ってスケッチ旅行に出かける。夫もたまたま体があいたので後を追う。ごくなんということもない夫婦の日常生活のひとこまに過ぎず、筋らしい筋もない。だがそれがひどく瑞々しいのだ。ささやかなあぶくのような挿話がないあわさって、二人の人間の輪郭を奥行きをもって描き出していく。いや、ある人間について語ることが、いつのまにかその人間の歴史、記憶、人間関係を示すものになっていく。一人の人間のなかには、これまでに交わした無数の会話、無数の思い出、無数の出来事が書きこまれているのだから。そのようにして人は、時間と空間に編み込まれている。それは最初から閉じられた輪郭を持って、複数の作品を飛び移ることのできるいわゆる「キャラクター」的な人物像の対極にあるものだ。印象、記憶の重ね合わせとしての人物。きわめてまっとうな二十世紀文学的方法論だ。
 この作品は、やがて短編連作の一部のようなものになるのだろうか。それともより大きな長編小説の背景となるのだろうか。いずれにせよ、この短編から感じられるのは、これが複雑な広大な世界の一部を切り取ったものだということだ。すぐれた小説は世界の大きさと豊かさを、小さな日常の描写を通して開示してくれる。


墨谷渉「地蔵塚」(早稲田文学
 昔、一度だけ訪れたことのある親戚の墓を、ふらりとたずねてみる、という話に、幼い子供の死をめぐる幾つかの点景的エピソードを添えた作品。私小説なのかどうか知らないが、感触としてはそれに近い。子供の死といっても、自分の子が亡くなるわけではないので、切迫感はない。淡い断想といったところだが、なかなか心地がよく、個人的には好きな作品。あっさり薄味。


青沼静哉「ほか○いど」(○は温泉マーク)(早稲田文学
 早稲田文学新人賞だが、選考の東浩紀の評が的確かと思う。「唯一の、そして最大の難点は固有のテーマらしきものが見つからないことで、したがってそういう観点から見ればこれはまったく不毛な小説でもあるのだが、それはこの小説の狙いからすれば不可避、というよりむしろその不在こそがテーマなので不問に付すほかはないだろう」。小説というのは奇妙なもので、何らかの「主題」――いずれも曖昧な言葉だが、「意味」といっても「こだわり」といってもいい――のない作品を長時間読むのは困難であり、また、書き手も長期間無意味に耐え続けることは難しい。確かに現在では、福永信青木淳悟といった物語内容における意味の不在を志向する一群の作家が存在する。だが彼らの作品は、その不在を補填するように、構造そのものにおいて何らかの一貫性を触知させる。でなければ作品としては成立しないだろう。
 だが「ほか○いど」では、初発ゆえの意味の不在がそのまま投げ出されている。幾つかのアイデアと言葉遊びと、先行テクストの擬態以外はきれいさっぱり拭い去られている。「受賞の言葉」(にあたるもの)も含めて、徹底して作り込み、ふざけ倒してやろうという心意気には見上げたものがあるとさえいっていい。
 東は「ニコニコ動画時代の『さようなら、ギャングたち』といった趣」と書いているが、高橋にあったリリシズムを支える「わたし」の一貫性は皆無である。一行ごとのナンセンスギャグによってテクストを駆動させるスタイルはゼロ年代以降のものだ。


木下古栗「盗撮星人」(早稲田文学
 あいかわらず快調といっていいだろう。今回も話としてはまったく意味がないがおもしろい。
ところで、「群像」の「小説合評」で、前回取り上げた「夢枕に獏が……」を佐川光晴田中和生の男性作家・批評家が褒めているのに対して、平田俊子が首をかしげているのが興味深かった。どこがいいのかさっぱりわからないという風情だ。もしかして木下作品は女性には嫌われるのだろうか? 下ネタだから? というか、「女のことなど何も知らないのに下ネタで異様に盛り上がってる馬鹿な中坊グループ」みたいなノリだから? 実際、木下の下ネタは全然エロくないし、どこかに童貞臭がする。僕は、木下の作品を読んで、なんとなく古谷実のコミック「稲中卓球部」を思い出していたのだが、思えばこれも、ナンセンス+下ネタ+中学生のとりあわせだ。女性読者がつかないとしたら可哀相だが、この三つは僕の大好物なので、どんどんこの調子で書いていってほしい。


佐藤弘「あの手紙の中で集まろう」(早稲田文学u30)
 ちょうど幾人もの亡霊が次々にその書き手に憑依しては、自分の経験を語っているかのように、一通の手紙として書かれている文章のなかで、語り手が次々に移り変わっていく。アイデアはおもしろいのかもしれないが、完全に失敗している。お互いに連関のない内容がだらだらと語られていくため、読みづらいことこのうえなく、しかも散漫な印象しか与えない。その上、「手紙」という設定が何の役割も果たしていない。
このタイプの小説を書くためには、複数の語りをもっと精緻に構造化する必要があったろうし、文章も考える必要があっただろう。今のざっくばらんな語り口が効果的だとは思えない。逆説的だが、断片によって作品をつくりあげるためには、全体を感じさせる必要がある。


間宮緑「禿頭姫」(早稲田文学u30)
王朝もの。やんごとなき姫君の甲姫は、目覚めて突然自分の黒髪が消滅していることに気づく。彼女はお付きの影姫の髪を切って鬘をつくって身につけるが心はやすまらない。
作者が狙ったのは、王朝を舞台にした物語のなかでも、坂口安吾桜の森の満開の下』、石川淳『紫苑物語』、澁澤龍彦『ねむり姫』のような妖しい耽美的な雰囲気を持った作品ではないかと思われる。しかしこれらの作品を名作にしているのは、完璧な文章と目も眩むような奇想とともに、くっきりとした輪郭を持ったプロットなのである。これらはメルヒェンであり寓話でもあるのだから、シンプルで力強い筋立てが必要なのだ。この要素が決定的に欠けている。作者は文章にこだわる――成功しているとは思わないが――ほどにも、筋立てにも気を配ってほしかった。
あと一応平安期の宮廷がイメージされているのだろうが、具体的な設定がよくわからないのも気になった。幾人も登場する「姫」たちは、一人の「御殿様」に仕えているらしいが、現実にはそのようなことはなかっただろう(妻問い婚なんだし)とか、お付きの侍女に過ぎないものがなぜ「影姫」と呼ばれるのか、など。歴史的事実を逸脱するな、というつもりはないが、「現実と似通った別の世界」を舞台にするのなら、ある程度現実世界との異同を明瞭にしておく必要があると思う。



入間人間「返信」(早稲田文学u30
 ひきこもりの青年が、唯一のコミュニケーション相手であるメル友から電話番号をメールされて戸惑う話。ディスコミュニケーションに苦しむ主人公の自意識語りが中心であることと、彼を母性的に受け入れる女性が登場することの二点において、まちがいなくラノベ的だ。だが、分量のせいもあって、粘着性はなく淡白な印象を受ける。けっきょくのところ、引きこもり青年が女性に励まされてちゃんとした人間になろうと決意するという「いい話」に落ち着いた。


村田沙耶香「パズル」早稲田文学
OLである早苗には、他人というものを一個の人格以前に生の肉体、細胞や粘液や内臓の集合として見てしまう癖がある。例えば満員電車に乗れば、周囲の男たちが吐き出す息を、ほとんど手でつかむような具体性をもって感受する。普通だったら気持ちが悪いと思いそうなものだが、自分自身の身体を無機物のように感じている早苗は、そうした他人の「肉体」と接することに恍惚感を覚える。「他者」というものを認知するときの奇妙な歪み、ブレというのがこの作者の主題であるらしい。その奇妙さは、酔った同僚の嘔吐物の香りをうっとりと吸い込むような描写にあらわだが、そのような場面でも意外なほどグロテスクさはなく、静謐で繊細なトーンが全編の基調をなしている。正直にいえば、この早苗というキャラクターはかなり作り物めいているという感じは拭えなかった。けれど全体としてはよくできている。世界に対する違和を抱えた若い女性が、その違和を受け入れることで癒され、至福に入っていく(しかし、客観的には狂っていく)という物語を、素直に描いて成功している。


木村紅美「見知らぬ人へ、おめでとう」(群像)
 企業で経理を担当している灯子は、職場にも同僚にもなじまず、どこか孤高の姿勢を保って生活している。もともと彼女には若いころから世の中のマジョリティに対して反発する気分があったのだが、三十を過ぎてみると、結局平凡なOLに過ぎないこともわかっている。一方、未央は結婚して専業主婦という安定コースに一度はのったものの、夫のリストラでまた働きに出ることになった。未央のわだかまりは、昨年経済的理由から、二人目の子供を中絶したことだ。この二人の日常が交互に語られ、やがて交わる。
 先月の朝比奈あすか「クロスロード」もそうだったが、最近の女性作家の小説では、未婚、子無しで働く女性と、無職か働いても不安定労働の既婚女性という取り合わせが多いような気がする。いわばこれが、平均的な現代女性の生き方の振り幅なのだろう。いうまでもなく、女性もばりばりキャリアアップという路線も、家庭で優雅に専業主婦という路線もとっくに擦り切れてしまっている。希望や展望の見えない毎日のなかで、深呼吸のできる空間を探し求める場面がしばしば描かれる。
 確かに新味のある設定ではないかもしれない。けれども、家庭や職場といった既成のコミュニティに依存しない場所で(というのはそれらのコミュニティはもう機能していないからだが)、硬直化しない人間関係を求めるというモチーフにはリアリティがあるのだろうと思う。
 ほとんど接点も利害関係もない灯子と未央が一瞬だけ出会うとき、儚さゆえにその交わりは無垢である。

追記(4月8日)僕は木村紅美が好きだ。特に、「イーハトーヴ短編集」という小品がとても好きだ。村田沙耶香についてはよく知らないのだけど、基本的にいい作家だと思う。それで今回もかなり好意的に書いたけれども、しかしあとになって、両者ともあまりにお約束に過ぎるのではないかということも考えた。というのも、現在の文芸誌では、孤独な女性の生活を平明なリアリズムで描いた作品はほとんど定番ともいえるほどたくさんあるからだ。そろそろ飽和状態にさしかかっているのかもしれない。女性作家の多くが、主題の幅をひろげていかなければならなくなるだろう。


小野正嗣「蟻の列がほどけるとき」(早稲田文学)、「流れに運ばれまいとするもの」(すばる)
「蟻の列がほどけるとき」は先々月の「かあさんのピアノ」の続編、ないし、姉妹作。テーブルの上を蟻が一本の線を作って歩いている描写からはじまり、その蟻が森の中を行進する人影に変わったり、語り手である「僕たち」自身に変化したりする。細部に織り込まれる森の中で赤ん坊が泣いているといったイメージも魅力的だ。プロットのかわりにイメージのメタモルフォージスで勝負するこういう作風は人を選ぶのかもしれないが、僕は嫌いではないし、水準もクリアしていると思う。一方、「流れに運ばれまいとするもの」の方は、地面にうつ伏せになっている老婆といった同じイメージのくりかえしが停滞感を呼んで、少し辛かった。「蟻の列がほどけるとき」くらい短い方がうまくいくようだ。


小林里々子「ぼくのあな」(早稲田文学u30)
 才能を感じた。中学生の世界におけるいじめというのは、「へヴン」にも見られる通り、流行といってもいいような素材なのかもしれない。だが小林は、見通しの利かない短い文章を積み重ねることで、無数の光源がハレーションを起こしているような歪んだ幻惑的な想像空間をつくりだしている。中学二年生の透は、たまたま通学途上に痴漢に襲われたことから、性的なものに過敏に反応するクラスメートたちにオカマ扱いされるようになる。またその一学年下の龍も、似たような経緯でいじめられている。自分を透明にすることで、周囲との軋轢を解消しようとする透にたいして、龍は突発的な暴力で応じる。彼は自分を怪物にすることで、うとましく不潔な日常的なコミュニケーションの回路を断ち切るのだ。情景を描写するのではなく、瞬間瞬間の出来事だけを記録する文体が、学校内の権力の変動、思春期の未熟な性的意識、揺れ動く自己像といったものを粒子状の流動体として描き出すことを可能にしている。二人は砂鉄が磁場によって姿をかえるように、幾つかの模様を描き出しながら、引き返すことのできない結末に向かって突き進んでいく。
 

古川日出男「犬屋たちは必ずコンクリートの裏側に」(早稲田文学
編集部の指示だとはいうものの、古川日出男を「新人」とくくるのは違和感がある。すでに充分なキャリアを持ち、しかもいま最も脂ののりきった実力派作家というのが衆目一致するところではないのか。この作品も、古川の力が遺憾なく発揮されている。ある男の五歳から二九歳までの半生がものすごい速度で一息に語られる。わずか数ページの作品であり、必然的に物語は圧縮され、断片的なイメージだけがモンタージュ的に組み合わされることになる。軸となるのは、少年が犬と会う、という場面の反復だ。そこにメタフィクショナルな語りがたびたび介入する。あらためて実感するのは、古川という作家語りのスキルのすさまじさだ。長編を読めばすぐにわかるように、古川の武器はエンタメ的なスピーディーな展開と、巧緻に仕組まれた複雑なナラティブにある。この超短編でもそれがわかる。逆に言うと、その技量のパフォーマンスのためにだけ書かれた作品という感じがしなくもない。軽くブルペンで剛速球を披露して見せている剛腕投手といったところか。