「文學界」3月号新人小説月評

新人小説月評第二回。先月の「文學界」に掲載されたもののロングヴァージョンです。追記は3月8日現在のもの。あと、「文學界」って毎月6日発行だったのですね。8日だと思っていてアップが遅れてしまいました。

原田ひ香「東京ロンダリング」(すばる)

住人が変死した「訳あり物件」。そこを斡旋する不動産屋は、借り手にまずその部屋で起きたことを「説明」しなければならないらしい。主人公は、不動産屋に雇われている訳あり物件のロンダリング屋だ。彼女は「客」となって、一カ月だけその部屋に住む。そうすると、その後不動産屋に「説明」義務はなくなり、普通の物件として大手を振ってあつかえるというわけだ。この職業設定はおもしろい。だがそのおもしろさが充分に生かされているとは言えない。
 問題は、これといって突出したところがなく、かといって精緻に作り込まれているともいえないことだ。文章もプロットも破綻しているわけではないので、人情話として、それなりのものになっているとはいえる。だが、傷心の主人公が無口だが気のやさしい下町の定食屋の若主人(しかも数学科卒で、けっこうイケメン)との恋で癒されるなんて、ちょっとありふれてないか。おせっかいだが主人公を親身に気遣ってくれる大家の老婦人とか、いつもは飄々としているが実は情熱家だったりする不動産屋の親父など、主な登場人物がどこかテレビドラマ風のわかりやすいキャラクターになってしまっている。それでも、わかりやすいなりに輪郭がくっきりと描かれていればよかったのだが、その部分が今一つ物足りない。人物描写があっさりしていて薄いのだ。主人公は若い男との浮気がばれて離縁されるのだが、その経緯が簡単にしか描かれないので、頭の足りない女にしか見えない。定食屋の若主人が主人公に惚れるのもいかにもお約束らしく見えてしまう。人物の心理や性格を浮き立たせるような細部を盛り込めなかったせいである。
結局、悪くはないんだけど印象にも残らない、という無難な作品になってしまった。
付け加えておくと、主人公が、自分たちの世代が直面している問題は、どこにも居場所がないことだ、と老年の家主に抗議する場面がある(だいぶ意訳)。まさしく「居場所がない」問題こそゼロ年代の文学の主要なテーマだった。だけど、この主人公は実は非現実的なほど「居場所」にだけは恵まれているのだ。そもそも、家出同然の彼女に、住んで寝るだけで賃金がもらえるおいしい仕事が紹介されているわけだし、周囲の人間は、みな失意の彼女をやさしく気遣う。そこがこの作品が心温まるファンタジーであるゆえんであって、中途半端に社会派を気取るよりも、開き直って下町人情話に徹した方がよかったのではないか。

木村友祐 「幸福な水夫」(すばる)
あまりに地味な話である。父、和郎、73歳、脳梗塞により半身不随。長男守男45歳、製麺業、二男ゆずる39歳、演劇を志すも目が出ず、現在無職。中年の息子二人が、体は利かなくとも口だけは達者な老父を連れて一泊旅行をする。ただそれだけ。本当にそれだけの話なのだ。
では、つまらないかというと、必ずしもそうではない。素朴なリアリズムゆえの生々しさがある。こちらがたまたま東北に幾らか土地鑑があるせいかもしれないが、舞台となっている青森の田舎のロードサイドのどうしようもない感じ。農地のなかに基地や、原発関連施設の周辺だけ道路がよくなったりするところなど、思わずうなずいてしまうようなリアリティがある。
それにまた、頑固で強情で、その上介護が必要な老人の世話に苦労した経験などというのも、日常からすぐ手の届きそうな生々しさだ。我儘だが妙に可愛らしいところもある和郎のキャラクターにはどろくさいユーモアがある。
そして中盤から、和郎と息子たちの対立が、がむしゃらに働いて戦後の復興・経済成長を成し遂げた世代と、豊かさゆえの自由を得たけれど今や目標を失って途方に暮れている今の世代の縮図であることがわかってくる。年長世代はいつまでもエネルギッシュで口うるさいが、もはや体が動かない。一方、年少世代はそうした父親をうとましく思いつつ、一抹のうらやましさと寂しさを感じている、というわけだ。例えば、三男のゆずるは子供がないかわりに、生まれたての子猫を連れてきている。ゆずるはその子猫を自分の子供であり、和郎の孫だとふざけていう。和郎は、そうした毛の生えた生きもののために俺は働いてきたんじゃねえと激高する。おそらくここには、活気を失い、子供を残すこともできないでいる現代日本への何がしかの批評的意図が存在するのだろう。
しかし正直に言って、それはあまりに紋切り型だし、そもそもそうした社会的視線を織り込むだけの準備ができていない。ラストで、ちょっといい話、のようなところに着地するののもやや唐突だ。


三並夏「嘘、本当、それ以外」(文藝)
正直、内容に関しては、ゼロ年代のコーコーセーはこうゆうもんですかそうですか、という以上の感慨はない。二十歳である著者と同世代かそれ以下には充分にリアルなのかもしれないし、どうしても十代のイマが知りたいのだという向きにはいいのかもしれない。
主人公の「俺」は高校生。かなり要領がよく誰とでもうまくつきあっていけるが、本当に心を開いているわけではない。そして、その要領の良さ(適当に演技をしてしまう性格)をひそかに悩んでいる。その「俺」が唯一リラックスできるのは友人の岸本といるときだけだ。その理由は、岸本が単純素朴で裏表のない性格だからだ。彼の前では、自意識過剰にならずにすむのである。
だがこの岸本がつきあっているのが、彼とは対極的な七海である。彼女は、ブログで生きるのが辛いと訴えるようなタイプであり、買春しているなどのうわさもある。
「俺」が生きている空間は、家族とクラスメートというごく狭い人間関係に限られているのにもかかわらず、過剰なコミュニケーション、過剰な感情表現によって飽和している。対面はもちろん、ケータイメールやSNSなどを通して、彼らはつながりあい、空気を読み合う。ここでは数年前に話題になった「繋がりの社会性」、つまりコミュニケーションのためのコミュニケーションが全面化している。それは、個人がコミュニケーションの累乗によって、どこまでも演劇化、ヒステリー化を強いられるような空間だ。
「俺」は、クラスメートたちのそうした振る舞いに批判的である。彼の倫理/美学とは、いわば「自分を崇高化するな」といったものだ。ドラマの主人公になったみたいに振舞うな。愛してるだの、死ぬだの大げさに騒ぎ立てるな。平凡で退屈な人生に満足せよ、というわけだ。
その意味で彼が否定しているのは、ケータイ小説的な過剰に自己を演出して見せる感性であり、ドラマツルギーだといえる。むろん彼が生きているのはまさにケータイ小説にふさわしい環境であって、その点、これはメディア環境によってコミュニケーション嗜癖へ駆り立てられていく十代を描いた自覚的なメタ(アンチ)ケータイ小説になっているのかもしれない。
しかし、だからといっておもしろいということにはならない。まず第一に、彼のその倫理意識は感情的な反発にとどまっていて、なぜ自己崇高化、劇化がいけないのかが説得的に説明されていない。「俺」が基づいているのは、演劇的なもの、自意識的なものは悪く、自然で素朴な態度がよいという、それ自体素朴な二分法なのだ。最後の、退屈で平和な日常の肯定もどこか幼く感じられる。
第二に、主人公は距離を置いて、他人を批判したり軽蔑したりしているだけなので、対立、葛藤、共感といった物語を動かすメカニズムが働かない。元カノの実花など、何の役割も果たしてないようなものだ。そのために、語り手がくどくどと自分の意見を述べるだけの小説になってしまった。

高原英理 「日々のきのこ」(文學界
ちょっと感想の言いにくい作品。人々が体を菌に喰われていき、ソンビならぬキノコ人間になっていくというのが基本設定のディザスターモノなのだが、ホラー風のサスペンスやサプライズは極力抑えられている。というのも、「稗田の絵」という油絵(らしきもの)を抱えて、キノコの山を越えていくというメインプロットがないわけではないにせよ、実際にはキノコがらみの奇想がモザイク状にちりばめられているといった作風だからだ。つまり、ストーリーで読ませるのではなく、例えば妻の首筋から赤茶色のキノコが生えてきて、一晩ねちょねちょいじくりまわしてやりましたよ、妻はしっぽり感じていたようですよ、ふひひ、とか、まあだいたいそういうエピソードがつづくわけである。
とはいえ、今ひとつ乗れなかったのは、イメージの方向が似通っていていささか単調に感じられてしまったため。きのこ文学(飯沢耕太郎)好きな方はどうぞ。

朝比奈あすか 「クロスロード」(群像
ここ数年間の日本文学は、二十代から三十代の働く女の孤独や焦燥感の記述を高度に洗練させてきたという印象がある。最近の小説に出てくる若い男性が、どこか幼稚だったり短絡的であったりするのに対して、社会人としても、そして複雑な自意識を持った近代的個人としても、はるかに「オトナ」にふるまうのは女性の方だった。具体的な作家名としては清水博子角田光代といった名がすぐ浮かぶが、彼女たちが機会均等法施行以降、すなわち女性が総合職として企業で働き始めた時代の女性心理を描いてきたとすれば、最近の津村記久子などは、長期不況下の働く女性を描いているといえる。
この意味で、この作品も、そうした蓄積の上に立った最新の成果だといえる。ただ、この作品は、津村よりも清水に近い感触がある。なぜなら、主人公たちはいずれも一度は〈勝った〉ことのある人間、人を押しのけてがむしゃらに周囲から羨まれるような境遇を手にした人間だからだ。だから、何かを得たはずなのに追い上げてくる虚しさが主題となる。
二人の視点人物がいる。実里は、幼いころから水泳に打ち込み、一時はプロをも視野にいれた経験を持っている。しかし就職後は水泳からも遠ざかり、単純なデータ入力業務を三年もやらされている。もう一人の木綿子は専業主婦だ。彼女は自分の恵まれた容姿を活用しつつ十代を過ごし、今では裕福な家の専業主婦におさまっている。何欠けることのない生活のはずだが、最近の息子の健輔の発達が遅れ気味なのが気になる。
実里と木綿子は昔の同級生なのだが、物語内部ではほとんど接触はない。しかし、意図的に書き分けられた(ビジネスウーマン/専業主婦、未婚/既婚、女性であることを活用してきた/性的なものを忌避してきた、など)対比のなかで、二つの生き方のそれぞれの憂鬱や不安が浮き彫りになる。木綿子はわかりやすい今時の勝ち組だし、実里にだって過去の栄光と自負がある。二人とも努力家であり能力もある。にもかかわらず、満たされないのだ。なぜ自分がここにいるのかわからない。
白眉は、木綿子が昔の恋人と面会した後に、幸せとは小さな穴のあいた杯のようなものだと悟る場面だと思う。自分は望んでいたものをすべて手に入れた。しかし、その小さな幸せの底には穴があいていてそこからたえず水漏れがしているというわけだ。これは単なる愚痴ではない。木綿子は、水漏れがしていても杯が乾き切ってしまうことのない状態を幸せと呼ぼうと考えているのである。これはつまり、不安を抱えて、幸せな家族を演じていくことが本当の幸せの姿かもしれないという、開き直りであり、決意なのだ。うっすら寒くなってくるような感慨である。

追記:『群像』の合評ではわりと評価が辛かった。いささか型にはまっているという印象を与えたのかもしれない。確かにそれもわからないのではないのだけど、ていねいに作られた作品だという印象はかわらない。

木下古栗「夢枕に獏が……」(群像)
出落ちならぬタイトル落ちかと思いきや、怒涛のバカシーンの連続に大いに笑う。いや、フルクリが凄いと(ごく一部で)話題だという話は聞いていたのだが、なるほど、これは才能だと思った。また、巷間言われている中原昌也の影響というのもそれほど感じられなかった、というか、確かに似てはいるにしても、中原の悪意は消えていて、よりシャープで軽快な印象を受けた。大体不条理系の作品は、場面転換で巧拙がわかると思うのだが、そのへんが実にうまい。最初の二三頁は多少もたついている観があるものの、その後は一瀉千里で、うまい具合にでたらめに話を転がしていく。またギャグがギャグとして落ちがついて下品になる寸前でとめる寸止め感もすばらしい。つまり、お下劣なバカ話(なにしろ、冒頭が「夢枕に獏が立ってこう言った――西の方にエロ本を常食をする男がいるらしい、と」である)なんだけど、不思議と読後感がいいのである。下ネタと不条理と爽やかさという取り合わせはこれまで無かった。思いついたものさえいなかった。

大濱普美子 「フラオ・ローゼンバウムの靴」(三田文学
ホラーというほど強烈ではないが、怪談風の味わいを持った小編。ささやかな話だが、とても上手にまとめてある。主人公はドイツに留学中。ときおり言葉を交わすだけの隣人だった巨漢の老女が急死し、遺言で一足の靴を貰い受ける。平凡ながら魅力的な靴だったが、それに足を差し入れると、奇妙なことが起き始め・…。
シンデレラのガラスの靴、アンデルセンの赤い靴と、ヨーロッパの童話に出てくる女性の靴には、奇妙に性と血の臭いがする。この作品もそれを活用したということだろう。展開がおとなしすぎると不満の向きもあるかもしれないが、僕はこれでいいと思う。最後の部分で、謎が解き明かされそうで明かされないところも悪くない。

西元綾花「白牡丹μは鯖の目に咲く」(三田文学
主人公はバレエに打ち込んでいる女子大学生。バレエ以外のことには関心がない。恋人はいない。気軽におしゃべりできるような友達もいない。ただ一人例外と呼べるような友人がいて、主人公はその彼女に性的な牽引と反発を同時に感じている。バレエの発表会の準備のために、彼女は若い男性ダンサーと組んで練習をすることになる。はじめて異性の肉体の存在に触れて、彼女はまた揺らぐ。
要約してみるとありふれた話のようにも思えるが、読んでいるときはそう感じない。過敏で頑なな少女の意識が、ていねいで稠密な文章でしっかりと描写されているからだ。彼女は、自分の性的身体をうとましく思い、バレエでの役柄のように、火や空気の精のような存在になってしまいたいと感じている。クラシックバレエという道具立て自体が、地上の重力を離れ、身体を純粋なイメージに還元しようとする欲望を象徴しているのだともいえる。その彼女が、同性の身体に触れておののく。この感情は、単純に世間でいう恋愛というかたちにおさまるものではないが、その原型的なものではあるだろう。他者の身体への驚き、所有欲、つながりたいという欲望。思春期というには若干年齢が上だが、それだけに、性から自分を意志的に隔離してきた女性の緊張感と、その糸が切れる瞬間の痛みとも喜びともつかない感覚がよく伝わってきた。
しかし、密度の濃い自意識語りゆえの息苦しさがないでもない。どこかにスカッとぬけたようなシーンがあると解放感があったと思う。けれど、力作だと思います。

島本理生「あられもない祈り」(文藝
前回はわりとほめたのだけど、今回はついにダウン。やっぱ、だめです。こういうの。
まず文章が幼い美文調というのか、雰囲気重視の気取った文体なのだ。そのかわりイメージの解像度は低い。書き手が酔ってしまっている。
内容も他愛がないものだ。若い女が婚約者のいるちょい悪オヤジ(死語)に誘われて心がざわめく。つい寝てしまう。恋人との仲がこじれる。あやうく心中しかける。結局、オヤジともうまくいかない。そういう話である。これを、語り手が思い入れたっぷりで語るのだからたまらない。感情過多、自己愛過剰のポエム調なのだ。
とはいえ、恋愛なんて傍から見れば恥ずかしいに決まってのだから、内容の問題でもないだろう。結局、このナルシスティックな語りに同調できるかどうかがすべてだろう。
キャラクターはかなり薄っぺらい。相手の男は前半は気障なエロ中年であり、後半は優柔不断な弱虫である。主人公自体は、衝動的でかなり頭が悪い感じ。そして、主人公の恋人は、もう典型的なDV男である。
というわけで、僕的には完全にダメダメな作品なのだが、どうしてこの作家はそれなりに評価され、売れてもいるのだろうか。
思うに、境界例タイプの作品の強さということがあると思う。柳美里内田春菊らが典型的だが、彼女たちの作品には、揶揄されくさされながらも、人の目を惹かずにいられないところがある。島本作品に柳や内田ほどの壮絶なエピソードは出てこないが、やはり読むものを巻き込む力はある。それは、悲惨さや恋の苦しさを臆面もなく叫びたてるところからくるものだろう。はっきりいってずいぶん安っぽい恋だと思うのだが、共感する人間はいるだろう。個人によってはっきり好悪の別れる作品だと思う。

前田司郎「僕の病気」(en-taxi
テツと並んで、カメラは男のマニア心をくすぐるらしい。デジカメ全盛の今でもフィルムカメラに夢中になる人は多い。この作品も、大学生のころ一目惚れした一台から、現在に至るまでのカメラ遍歴をつづったもので、筆致はかぎりなくエッセーに近い。いや、エッセーそのものだと言っても間違いではなくて、これは小説とエッセーのあいだを蛇行するようなタイプの作品なのだ。作者もそのことは明瞭に意識していて、次のようなフレーズさえある。

「思う」をつけたのは僕の知識は素人の知識で間違っていることもあるからだ。これは一応小説なので。小説だから間違ってて良いというわけじゃないし、これは小説じゃないかもしれないけど、小説として流通させれば小説として受け入れられるものなのだ。
僕がいつも行く寿司屋の「カレイのエンガワ」は、実はカレイのエンガワでないのだけど、「カレイのエンガワ」として並んでいるのだから注文するときは「カレイのエンガワください」と言わざるを得ない。そうすると「へい」とか言ってカレイじゃないよくわからない巨大な魚の「カレイのエンガワ」に似た身を職人さんが握ってくれるのだ。そういう意味においてはこの小説は「小説」であるのだ。意味がわからない? じゃあわからないままで結構です。

この一節によって、この作品は確かに「小説」になっているといってもいい。こうしたぐにぐにと思惟の跡をたどりながら、思弁を重ねていくスタイルは、田中小実昌を連想させないでもない。


春日武彦「軍資金」(en-taxi
精神科医である作者が、自分が見た患者などについて書いたもの。前田司郎の作品が、まちがいなく「小説」であったとしたなら、これはどうしたって「小説」ではなくて完全にエッセーである。そこには厳然たる違いがある。ただし、ここで紹介されるエピソードは文句なしにおもしろい。正常な精神状態がそのままうっすらと異常につながっている不気味さを書くとき、この著者の筆は冴えまくる。

藤野眞功「喋るな、そして信ずるな」「事の次第」(en-taxi
これも小説ではない。実録風読み物とでもいったらいいか。週刊誌などによくある三面記事を小説っぽく書きなおしたやつ。もともとこれを小説枠でとりあげることに無理がある。

後藤友子「フィルムケース」(en-taxi
en-taxi掲載の作品のなかでは、これが一番「文学」っぽい。けれど、これも小説というより思い出の記、といった感じ。自分たち家族を捨てて出ていった父親の記憶が断片的に綴られる。悪くはないです。ただ、どうしても習作という感はただよう。

山下陽光「携帯説小」(en-taxi
作者は、高円寺の古着屋「素人の乱シランプリ」の店主だそう。「素人の乱」といえば、ゼロ年代に注目を集めた脱力系アナキズムの象徴的存在だ。この文章からもその雰囲気は伝わってくる。そして、作者がとても魅力的なキャラだということもわかる。だけど、これは小説でもなければ、エッセーでもない。最近あったことを日記風に文章にしてみました、といった種類のものであって、mixiや個人ブログに載っていても違和感がない。もちろん、そうしたものをレビューして意味があるとも思わない。

追記:「携帯説小」(en-taxi)の山下陽光については、その後このような記事を発見。やっぱ、この人おもしろいわ。
http://portal.nifty.com/2010/02/27/b/


宮崎誉子「人生は流せない」(文藝)
主人公は地味系女子高生マリコ。バイト先で一緒になったギャル系クラスメートのハチソノ(蜂谷園子)から、一緒にコンビを組んでライトノベルを書いて一山当てようと誘われる。
出だしでぐっとひきこまれる。とにかく、会話の勢いが半端ではない。軽快で、ふざけていて、皮肉が効いている。貧乏のひけめゆえに性格が暗く、ひねくれたところのあるマリコと、ギャルだが聡明なハチソノのかけあいで話が進むのだが、これが息のあった漫才のようにおもしろい。母子家庭で学歴もない二人は、とても明るい未来など思い描けない底辺労働者である。彼女たちのバイト先というのも、最低賃金しかもらえないような単純労働だ。マリコがその境遇に押しつぶされそうな気持でいるのを、ハチソノが叱咤激励する。その毒舌ぶりが泣けるし、笑える。この深刻ゆえに笑ってしまうというヤケッパチの明るさの文学的先祖をたずねるとしたら林芙美子しかいない。少なくとも、一瞬はそう思った。ところが、それが途中から失速してしまうのだ。確かに会話は魅力的だ。それに大手通販会社の倉庫で行われる返品作業など(主人公たちの仕事内容)もなかなか知る機会のないものでおもしろい。しかし、この作品には構成がない。会話のキレ、文章の勢いといった一行ごとの瞬発力だけに頼っているので、短編のこの長さでもやっぱりだれてきてしまう。そして心理的変化が書かれていないのが致命的だ。春休みのあいだの短期バイトという設定がされているのに、その労働経験によって、またハチソノとの関係によって、マリコの中で何がかわったのかがはっきりしない。そもそも、マリコとハチソノでは、学校内で属するカーストが違い、ほとんど口もきかない関係らしいのに、バイト先ではなぜ親友のようにふるまっているのかもわからない。そのあたりのつめが甘すぎるため、ともに働くことで二人のあいだに生れてくる友情にどうもリアリティがないのだ。
ググったところによると、この作家はこれまでも、派遣労働者や非正規者社員を主人公にしてきたらしい。そうした現代的な労働が宮崎のテーマなのだと思う。そうした世界を、大上段から大仰に語るのではなく、活写していることは評価できる。それだけに人物が厚みを持って立ちあがってくれば傑作になったと思うのだが。


白岩玄「海の住人」(文藝)
わからないでもないのだが、基本にある感情が子供っぽく思えて仕方がない。
壮介と裕太という二人の若者の語りが交互に重ねられる。壮介は恋人と安定した関係を築いているものの、日常の平穏さに軽い苛立ちを感じている。なんでもそれなりにこなしてしまう自分に軽い不満を持っていると言ってもいい。一方、裕太の方は、たえず自分をギリギリまで「追い込み」、自分の「可能性」を押し広げることを信条としている。裕太は合コンで無理めの女性に一目ぼれして果敢にアタックする。壮介はそのガムシャラぶりにいささか呆れつつも、うらやましいと思う。
この作品の底にあるのも、結局自分の人生には大したことなど起きないのだといううっすらとした諦念であるように思われる。壮介は、仕事場である塾の教室でこう述懐する。

それなりの家庭に生れて、それなりの仕事に就いて、それなりに満足のいく二つ年上の彼女と同棲している。そういうごく普通の幸せが自分の手もとにあることを、もちろんときどきはありがたいと思うことがある。何をそれ以上望むことがあるんだと胸ぐらをつかまれて聞かれたら、何も言い返すことはない。だから別に文句があるわけじゃない。ただぼんやりと考えているだけだ。いつまでも答えが出ないことを。誰に言うわけでもなくぼんやりと。そしてまた時間だけが過ぎていく。


自分の人生に不満はない。だが、その人生は手ごたえのないものに過ぎない。一方、それに対して、とにかくテンションを高くして、今を思い切り楽しもうという人生観を持っているのが壮介である。彼は、自分の生き方についてこう説明する。

何もしないと収縮していくじゃないですか。俺、そういうのがイヤなんですよ。可能性が収縮していくのを見ると、無理にでも飛び込んで押し広げたくなるんです。あきらめたくないんですよ。たとえ誰が無理って言っても、誰かの尺度で生きることほどつまんないこともないですから

この二人の対比、とりわけ裕太の恋愛がらみのちょっとした事件を巡って話が進むわけだが、結局のところ、裕太が述べているのもありふれた自己啓発系・ポジティブシンキング系の価値観に過ぎないのではないか。実際に彼が行う「可能性を押し広げる」行為というのは、宴会を盛り上げるため大食芸を披露して見せるとか、女の前で無茶をしてみせたくて、マンションの三階から飛び降りるとかなのだ。どうでもいいよ、そんなコト! 酔っ払って道頓堀に飛び込む大学生とどこが違うんだよ、という気持ちになってしまう。こんな具合だから、二人の姿がどうしてもいい気な学生気分に見えてしまうのだ。彼らの悩み自体が、真剣に取り上げるほどのことには思えないのである。