「文學界」2月号新人小説月評

この一月から半年間、雑誌『文學界』の新人小説月評の頁を担当させていただけることになった。これは文芸五誌に掲載された「新人」の作品を漏れなく取り上げて評を加えていくというものだ。ただ、月によっては十数編の作品を取り上げることもあるそうで、わずか一頁ではいかにも無理がある。以前からこのコーナーを読むたびに、書いた本人以外には意味も妥当性もわからないような独断的な一行コメントが並んでいるのを見て、何とかならないものかと思っていた。そこで、『文學界』の許可を得て、雑誌に掲載した原稿のロングヴァージョンを並行して公開していきたいと思っている。
以下が第一回。2009年12月16日に執筆して、2010年2月号に掲載されたものの元原稿です。

 これは文学に限ったことではないのだが、そもそもレビュー(作品評)の機能とは何だろうかと考えてみる。僕は次の三つではないかと思っている。
まず読者への情報提供。これは読むべき作品かどうかを判断するための情報である。アマゾンにおけるレビューの役割を考えてみればすぐにわかるだろう。これはある程度ニュートラルであるか、少なくとも判断基準が明確に示されているものが望ましい。内容も詳細であればいいというわけではない。自分が興味の持てる内容か、特徴は何か、簡潔に示してくれるのが役に立つレビューだ。
第二にアーカイヴ。作品名、作者名、要約などを文字の世界に登記しておくこと。これがなければ歴史はない。
第三に応答機能。あらゆる作品は、誰かに真剣に読まれコメントされる生まれながらの「権利」を持っていると僕には思われる。むろんこの権利はしばしば踏みにじられるのだけど。第四に、いわゆる「批評」、つまり作品の価値を値づけし評価するという作業を挙げる向きもあるかもしれないが、それがもはや専門知として成り立つのか疑問に思っているのでここでは念頭に置かない。そこで、次のふたつを個人的な心構えとしておきたい。
1、自分の好みはさしあたり棚上げにして、できる限り作者のモチーフに寄りそう形で読んでみること。
2、批評家ぶって気の利いた一言などをいおうとしないこと。
 ただ問題は字数の制限だ。聞くところによれば、一か月に十数編の作品を取り上げなければならないこともあるらしい(想像するだに恐ろしい)。これでは、ほとんど一行コメントの羅列になるのは避けがたい。そこで、個人ブログ上で並行してロングヴァージョンを公開していけたらと思っている。以上、口上終わり。


島本理生『七緒のために』
 女子中学生である私は、転校してきた直後に話しかけてきた七緒と親しくなる。彼女はその微妙な言動と振る舞いのためにクラス内で孤立している。具体的には変人としてほぼ無視されているわけだ。自分自身以前に女子校で孤立に苦しんだ経験を持つ私は、七緒に強く惹かれていくと同時に、虚飾としか思えない彼女の振る舞いに翻弄され、反発していく。七緒というキャラクターを鋭すぎる感受性を持った孤独な少女と見るか、傍迷惑な不思議ちゃんと見るかで好悪が分かれるだろう。そして前者の読者ならば、少女の張りつめた感情世界をリリカルに描き出した思春期小説として充分に楽しめるだろうと思う。客観的には地味で平凡な女の子であるのにかかわらず、スカウトされてモデルをやっているとか、多くの男たちと寝たなどと頑なに主張する七緒は、無意識の演技者であり、彼女のつく嘘はむしろ幼い。だが、その幼さから、七緒の抱えた行き場のない寂しさが浮かび上がる。
 僕自身は実をいえば、この種の作品は趣味ではない。七緒のような人物には共感できないし、全体に思春期心性(繊細さ、純粋さ)を特権視する価値観を感じて白けてしまう。けれども、この小説が少女期の心理、特にその脆さや性急さを含めて描いて水準はクリアしているということも間違いがないだろう。「魔女」と七緒にあだ名され、樹海で別れた夫に無理心中を強制される塩谷先生、唯一包容力ある大人の役割を割り振られている心理カウンセラーの来栖先生といった脇役のキャラクターもなかなかに悪くない。
思春期というのは一言でいえば、日常接触するささいな出来事や他人の言動が、そのまま世界の色合いを決定してしまうような重大な意味を持つ時期ということだろう。そこには、自分と世界の関係を客観的に見直す(再解釈する)ための「距離」がない。語り手の雪子は、七緒に愛想をつかして離れてしまってもいいのだが、それだけはしない。結局、雪子を必要としている七緒に限らず、雪子もまた七緒に反発し、批判するという形で七緒に依存しているのだ。その意味で、二人の関係は恋愛に近い(ただし性的な要素はない)。
さいごにひとつだけ物足りなかった点を。おそらくこの作家が書きたかったのは、あるいはどうしても自然に力が入ってしまうのは、思春期だけに感受できる世界の瑞々しい感触、といったものなのだろう。放課後の美術室にさしこむ夕日の影、暮れていく空の色、立ち去り際の友人の後ろ姿、などなど。それはそれでよい。だが、今の〈私〉が感じている世界の表情=感情だけに集中することは、自分の感情を客観化することを困難にしてしまう。実際、七緒ばかりでなく雪子の行為もかなり衝動的で支離滅裂だ。けれども、作品の冒頭の部分では、「七緒との思い出はだいぶ薄れてきた」と、語られるエピソードの今と、語りの現在とはかなり離れているらしいことが示唆されているのだ。だとすれば、思春期の〈今〉を、あとから再解釈し、意味付けし直す後年の〈今〉もあったほうが自然だし、厚みが出たのではないだろうか。


小野正嗣『かあさんのピアノ』はマジックリアリズム風の小品にして佳品。母親の、森には養魚池がある、という一言をきっかけに、名も人数も定かならぬ「僕たち」は山の中に迷い込んでいく。しかしそのまま直線的に話が進むわけもなく、物語は連想にも似た連環形式で幾つかの話題を放浪する。地面を覆ってびっしりと暗く「そこに生えているのは木ではなくて、木の影のよう」だという森の描写が魅力的だ。奔放な想像力と文章で読ませるタイプの作品だが、マジックリアリズム風と言っても熱帯らしい活気や熱はあまりなく、どことなくうそうそとした寂しさが漂っているのが味わいか。その軽さのために構えずとも読み易い。一番印象的だったのは、子供たちに無関心のようでありながら、あらゆる空間に遍在することによって「僕たち」を支配する〈母〉という存在の不思議さだ。「僕たち」が森の奥深くに分け入って行っても、母さんが家で弾いているピアノの音が切れ切れになりながら追いかけてくる。そのうち、音が聞こえているのか聞こえていないのかわからなくなってしまう(そのことは、いつまでも母の呪縛の圏内から逃れられないかのような感覚をもたらす)。見ていないようで見ている母親の視線。おそらく物語の全体を組織しているこの母親の眼差しは、「僕たち」を不安で凍りつかせると同時に、彼らが信じることのできる唯一のものだ。この語りの現実(幻想)を可能にしている準拠点と言ってもいい。
 もしこの存在が〈父〉だったらこの作品は成り立たないだろう。少なくともまったく違った印象になったはずだ。磯崎憲一郎の『』にも、世界を包含するかのような〈母〉が出てきたことを思い出したのだが、なぜ現在の幻想的な作風の作品において、しばしばこのように超越的な――いわば統覚としての――母親像が出現するのか興味深い。
 ただ、その母親のイメージと比べると、後半で出現する「姉」や「外国人のおじさん」存在はいくらか曖昧であるように思われた。つまり母さんや「僕たち」とどういう関係にあるのかがよくわからないのだ。


福永信『一一一一』
同じ連環形式でも、小野正嗣有機的な想像力に対して、福永信の『一一一一』はいかにも人工的で無機質な印象を与える(褒めてます)。全編、たまたま同じエレベーターに乗りあわせた(らしい)男二人の会話で成り立っているのだが、一方が相手の生い立ちを勝手に想像して決めつけていくのに対して、他方はひたすら相槌を打つばかりなのだ。こうして男はもう一人の人生を再構成してしまうのだが、それは突然妻と幼い娘に逃げられるという三文小説的な、しかしかすかに性と暴力の匂いの滲む物語である。いうまでもなく、エレベーターの中でつづく長大な会話という設定がすばらしく馬鹿馬鹿しい(褒めてます)。さらに、福永特有の端正で隙がないのに同時に凡庸な印象を与える文体がそのおかしみに輪をかける。その結果、福永作品のトレードマークともいえるスカスカした空気感と何とも言えない笑いはいつにもまして際立っている。少し読めば誰にでもわかることだと思うが、福永の作品はいつもきわめて丹念に作り込まれているという印象を与える。しかし、その丁寧さは、純文学的、あるいはエンターテイメント的な何らかの「効果」に向かって動員されるものではない。逆に、何かを安易に意味してしまうのを入念に避けることに福永の注意は向けられている。だから、彼の作品は、読者に特定の情動や感覚を押し付けないという点で、非常につつましく上品な印象を与える、ということを今回も感じた。こうした過激な実験性と、奇妙にさわやかな品の良さの両立が、ゼロ年代文学(青木淳吾、円城塔岡田利規)の特徴だと思うのだがどうか(笑)。